偽鑑先生の作文講座 その四 | |
四、表現技法(修辞法)―比喩表現を楽しもう《9p》 |
|
七、(漢文のお話し抜きで)対句 |
では次。表現技巧と言って、漢文の先生が落とすわけにはいかないのが「対句」である。ウーン。対句の説明のために漢詩を引用したいとこだが、これ以上嫌われたくないので止めておくのである。対句だけで半年はもつくらいに言いたいことは山ほど、山より高く海より深くあるのだが、涙を飲んで止めておくのである。でも言いたいなぁ。ちょっとだけ、ホンのちょっとだけ触れます。 そもそも中国には、その思考方法にまで深く染み込んだ二言論的世界認識というものがあるのです。この世のすべては陰陽二つの気から成り立っているとする世界観はその代表であり、光と影、昼と夜、月と太陽、白と黒、悪と正義、男と女、凸と凹、文と質、……すべてが二項対立的に捉えられ、その結果、思想を表記する手段である漢字にまで二字熟語が増え、文章表現にまで対句の多用をもたらす……単なる表現技法の枠を越えているのである。(ここでちょっと寄り道) ところが実際には、昼と夜とのどちらにも属さない「あけぼの」「夕暮れ」なんてものがあったり、悪か正義か、白か黒かではなく灰色高官なんて訳のわかんないものが考え出されたり、男と女以外にも第三の性を作り出したり、(第三の性について少し蘊蓄を傾けると、けしておカマさんとかミスターレディーなんてものではなく、西洋ではアンドロギュヌス、日本語でふたなり、漢字で両性具有、半陰陽。医学的に説明すると、「真半陰陽」とは、卵巣二個と精巣二個の両方を持っている人、「両側性半陰陽」とは、右と左にそれぞれ一個の卵巣の一個の精巣を持っている人、「側半陰陽」は……イライラして頭が混乱しそうなので、解りやすく言うと、男性器(オチンチン)女性器(オ……)の両方を持った人。なんてものが、完全なる人間の象徴として、ギリシャ神話やインド神話の昔から存在するのである。両方を持ってるのが完全な人間だというのも随分無茶だとは思うけど、これが愛の説明になるのだからもっと無茶だと、偽鑑先生は思うのである。 つまり、人間は、男も女も単独では完全な存在ではないから、お互いに自分に欠けた、自分とはちがう存在…異性を求め、愛しあい、完全な存在になろうとするのだ、というのである。これは、ギリシャ神話や聖書のアダムとイブを持ち出すまでもなく、愛国心あふれる日本人なら是非とも『古事記』を読まなくては、なのである。(愛国心などという言葉や右寄りの方々にはめっぽう弱い文部省にゴマをする意味でも、ここは『古事記』を持ってこなくてはならないのである。)『古事記』という、ありがたい書物を、うやうやしく紐解くと、国生み神話としても有名な、イザナギ、イザナミのまぐわい(ウワーッ、とんでもない言葉を使ってしまったのである。伏せ字にするべきかもしれないな。しかし、『古事記』のようなありがたい本に書いてあるんだからいいか。)の場面でも、やっぱり「私は欠けてるわ」「僕は余ってるよ」なんて会話が交わされて、最後に「ながみの あはざるところに さしふさぎて」「まぐわひせん」ということになるのである。 しかし、どうでもいいことだが、イザナギノミコトという男神は、実に率直というか、素朴というか、表現技巧を用いないというか、いきなり初対面で「まぐわひせん」はまずいだろうと思うのである。高級レストランで食事してからとか、きれいな夜景の見えるホテルのラウンジでカクテルの一つも飲んでからというのではなく、いきなり「まぐわひせん」なのである。こういうのがハヤリだったのかなぁ。そのうえ「今夜はいいだろう」とか「泊まってけよ」とか「君が欲しい」とか「部屋とってあるんだ」とか「夜明けのコーヒーを」とか、朝出かけるとき、玄関の傘立てにハンカチが巻き付けてあれば今夜はOKだとか、授業中耳に手をやれば、いつもの所でという合図だとかいうのではなく、そんな表現技巧は一切無視して、そのままずばり「まぐわひせん」言っちゃうのである。それで女神さんの方も恥ずかしがって断るかと思えば、これまたいきなり「アラ、いい男ね」なんて、お前はイケイケかと、突っ込みたくなる事を言うのである。その結果、淡路島やら、四国・九州やらを産んで、しまいには火の神さんを産んだせいであそこに火傷して死んだなんて、いったいどういうアソコしてたんだろうと、初めて『古事記』を読んだ高校一年の多感な偽鑑先生は思ったのでありました。 あの時の偽鑑先生のショックは相当なものでした。偽鑑先生が、国文ではなく中国文学を選んだ遠因がこんなところにあるのかも知れないと、この頃思っていたりするのである。日本の国の成り立ちはこんなですよ、古代人の発想には、びっくりなのである。こんな話、SF作家だって、AV監督だって、なかなか考え付かないのである。まったくもって古代人、万歳!なのである。 こうして、どこの国でも男と女は求めあうことが運命づけられているのである。ところがそんな神々の約束事にさからって、世紀末の現在はとんでもない状態になっているのである。男、女、ふたなり、男の好きな男、男の好きな性転換した男、性転換したけどやっぱり女が好きな男、男になったつもりの女で男が好きという人、男になったつもりの女で女が好きだという人、…・・・中国人や神々の考えた、男と女だけの二言論的世界とは違って、現実はもっとずっと複雑怪奇で楽しいのである。これはけっして人間世界だけに限ったことではなく、生物によっては五つも六つも性があったりするのである。するとその生物にとってセックスの仕方は……やめとこ、神々の怒りに触れて、雷(イカヅチ)に打たれそうだ。 ところで、「アンドロギュヌス」なんていうとまるで恐竜みたいで強そうで、ウルトラマンかスピルバーグを呼びたくなるし、「両性具有」と四字熟語にすると、やたら学問的で偉そうで、孔子先生に登場願わなくてはということになるし、「ふたなり」なんて大和言葉にすると、実にもうはんなりとして、そこはかとなく日本情緒が漂って、「おいでやす、ふたなり、おひとついかがどすか」なんて、無茶苦茶な舞妓さんが出てきそうなのである。どれも同じものを表すのに、言葉って不思議ですね。こういう言葉の持つ面白さというか、場面による微妙な使い分けも気にかける必要がありますね。たとえば「オチンチン」なら可愛らしくて、撫で撫でして頬ずりまでならしてもいいかなと思っても、「■根」なんて言うと、よほどの覚悟がないとさわれないような立派な……どうしたんだろう。なんでこんな……とんでもない話に……対句の話だった……だから『古事記』なんて出さずに……もう間違いなく検定不合格なのである。 (まだまだ続きます。) | |
![]() ![]() |