偽鑑先生の作文講座 その四 | |
四、表現技法(修辞法)―比喩表現を楽しもう《8p》 |
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六、(予定にはなかった)擬人法とその他の修辞直喩 |
表現技法として、比喩と同じくらい頻繁に使われるものに擬人法というものがある。小学校あたりで習ったでしょうから、理屈は抜きにして、さっそくいくつか見ていくことにしましょう。 まずは、もうすっかりお馴染み今野登茂子さんです。 ・月が微笑んでいる (「月の出来事」今野登茂子) ・月が見守っている (「月の出来事」今野登茂子) まぁ、良くある、誰にも解る、そういう意味では大変良い例ですね。後は取り立てて言うことはないですね。こういうものかと理解していただければ結構です。あと二つほど挙げておきます。 ・そよ風が吹けば光りたちの鬼ごっこ葦の葉のささやき(「富士山」草野心平) ・その度に富士は近づき、遠くに坐る。 (「富士山」草野心平) 何やら国語の教科書にも出てきそうな、■部省の■■ば役人■もが好きそうな、危険な思想は微塵も感じない、それでいて芸術的でございとふんぞりかえっているような表現ですね。偽鑑先生は個人的にこんな比喩はあまり好きではありません。これならまだ秋元康の方がましだなっと思ってしまうのである。(また伏せ字を使ってしまったのである。まるで戦前の言論統制が復活したかのようで背筋が寒くなったり、いかがわしい小説……「チャタレイ夫人の恋人」や「遊仙窟」や「源氏物語」の翻訳みたいで、妙にドキドキしたり、西田先生は、そんな気がしているに違いないのである。ある本に載っていた伏せ字を使った愉快な文章の書き方を思い出したので、参考までに挙げておきます。×はペケと読みましょう。 「信男は×××髭に××埋×××まっ××た××顔×××を×××空××に××××開い×××た××女の××××股×××の×××間に×××刺×××××しこ××××む××や厚×××い唇×××で彼××××女××××の」) さて、次は、擬音・擬態語なのである。これもよく使われる手法の一つではあるのだが、普段書く文章では、とかく幼稚な印象を与えがちになるので、あまり使わないほうがよい。そうじゃないと、まるで鶴瓶のお話しのように、ワァッときて、ピューと行って、グワーとなって、ビヨォーンだったというような、わかったようでわかんなくて、それでいて面白くて、納得しようかなと思いかけて、やっぱりおかしいなということになるのである。 その上、使うにしても、ごく常識的なものにおさえておくのが肝心である。そうじゃないと、友達なくすことになりかねないのである。たとえば次のような表現を見てみましょう。 ・秋の夜は はるか彼方に 小石ばかりの 河原があって それに陽は さらさらと さらさらと射しているのでありました (「一つのメルヘン」中原中也) これは中原中也のわりと有名な作品の一つで、よく教科書なんかにも出てたりするのだけど、こんな詩を教科書に載せて、国語の先生はどうやって何を教えようというのだろう。学校の先生の無知の大胆さというか、文部省の役人のやることには逆らえない辛さというか、無責任ないい加減さというか、恥知らずな愚かさというか、そういうものに心から敬意を表するのである。だいたいこの詩を巡っては、ど偉い学者さんが何人も何人も論争し合って、結局その議論の方がよっぽど難解で、偽鑑先生も投げ出してしまったほどの問題があるいう、そういう詩なのである。偽鑑先生はとてもじゃないが、こんな難しい詩は教材にはできないのである。でも教材にはできないが、味わうのは好きだったりするのである。 中原中也は「さらさら」と陽が射すと捉えたのである。まるで細かな砂でもあるかのように、光を捉えている。そして、事もあろうに、一行目で「秋の夜」と言っているのである。さらに「河原」なのである。偽鑑先生は、どういうわけか、賽の河原を思い起こしてしまうのだが、これらの中原中也が抱いた感覚は、なかなかに含蓄があって、おいそれと冗談を言えるような気分ではないのである。しっかりと沈思黙考がして、ようーく噛み締め、噛み締め、どっぷりと詩的世界に入ってしまうのである。この辺が、銀色夏生の詩にはない芸術性ってものだったりするのであるが、それは今はおいといて、陽がさらさらなんて表現を日常生活の中でやられると、ちょっと困ってしまうのである。こういうのは、やはり小説や詩の世界においとくのが無難である。くれぐれも擬音語の扱いは慎重にしましょう、アマチュアがおいそれと手の出せるものじゃありませんよというのが、とりあえずの結論なのであある。 | |
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