偽鑑先生の作文講座 その四
四、表現技法(修辞法)―比喩表現を楽しもう《5p》
 
 四、(余計なこと言わずに)直喩
 
 まずは直喩の例です。
 
 ・ 燃えるような季節(「月の出来事」今野登茂子)
 恥ずかしくなるくらい、なんの工夫もない比喩ですね。今野登茂子って誰なのか良く知らないので、悪口を言うのはやめておきます。しかし、ちゃんと「〜ような」を使っているし、間違いなく直喩です。
 次。
 
 ・血のように赤い彼岸花(「井上靖詩集」)
 ・ 雨のように蝉の声が降っている(「井上靖詩集」)
 アチャー、これまたひどい。「血―彼岸花」に「雨―蝉の声」ですよ。手垢にまみれた、陳腐な、腐っていやな臭いまでしそうな比喩です。こういうありふれた比喩をつかって平気でいられる感覚が信じられません。井上靖は、前からろくなもんじゃないと思っていたが、これほどとは思わなかった。やたら悪口が並びましたが、単に僕が嫌いなだけなので、あまり本気にしないように。もっと、僕好みの、いい直喩はないでしょうかね。
 
 ・幼年時
  私の上に降る雪は
  真綿のようでありました(「生い立ちの歌」中原中也)
 これはいい。けして奇抜ではないけど、素直で素敵な比喩だと思いますね。大変わかりやすい比喩ですが、「綿―白―雪」という単純なことしかイメージできないようじゃいけませんよ。本来冷たいはずの雪を、ふわふわ暖かそうな、母の温もりにも似た真綿に喩える。周りの世界がすべて暖かな母のような存在であり、その心地好い世界の中でなんの心配事もなく、ただまどろむように時を過ごしていた日々、その感じ方はまさに「幼年時」にふさわしいものです。さすがに中原中也です。こうでなくては詩人とは呼べません。参考までに「生い立ちの歌」というのは、いろんな年齢で、雪をどう感じたか、その違いを表現した詩です。どの部分をとっても比喩が満載の作品ですから、興味のある人は一度読んでみると良いと思います。中原中也の詩集も研究室に置いてあるはずです。
 
 さてこの中原中也の作品に見られるように、比喩の命は、イメージの類似と差異という点にあるのです。この一見相反するように思われる言葉の中に比喩を比喩たらしめているものが隠されているのである。具体的に説明しましょう。綿と雪とは「白」というイメージの類似性によって結び付けられる。だからこそ比喩として成り立つのである。実に当たり前の、誰も反論できないような事実なのである。しかし、単に類似性にばかりたよっていてはいけないのである。たとえば「お砂糖のような雪」なんて、類似性だけによりかかった表現をいい年した大人がすると、「お前の頭は小学生並だな」なんて馬鹿にされかねないのである。そこで大切になるのは、差異である。かけ離れていて、結びつきそうもない二つのものが結びつく。この、なんという事だという意外性、びっくりしたなぁもうという驚き、これが大切なのである。しかし、くれぐれも注意しなくてはいけないのは、無茶をしてはいけないということである。たとえば、意外性だけをねらって、類似性の方を無視すると、「豚のしっぽのような雪」なんて、寺山修司やルネ・マグリットもびっくりのシュールレアリスムの世界に飛び出すような事になるのである。そうなると、なかなか周りがついていきにくくなるので、平凡な日常が一番という人は、やめといたほうが無難なのである。
 孔子先生の教えにもあったように、「中庸」(ほどほど)が大切なのである。ほどほどの意外性ならば、人々は喜んで受け入れるのである。たとえばたまたま今見てるテレビ(相変わらず教育テレビなのである。)に出てきたニャンチュウが口にした「生きた化石」という言葉。これは隠喩ですが、考えてみれば、「生きた」という言葉と「化石」という言葉は、全く正反対の概念を表すはずなのです。生きているものが化石であるはずないし、化石は生きていない。これは「栄養たっぷりのウンチ」や「香ばしいおなら」というのと同じで、本来矛盾した言い方なのである。(しかし、例えがあまりに下品すぎる。こんなことでは、「人に比喩を教える前に自分がもっと勉強せい」と言われかねないのである。そこでもっとちゃんとした矛盾表現の例も考えたのである。「絶対安全な原子力」「自衛隊という名の戦争をしない軍隊」「争いを好む宗教」「象徴という役割を担った人間」……あちこちから抗議や脅迫状がきそうな例になってしまったのである。もう少し穏やかでおとなしく「絶対に人を傷つけないピストル」とか、もっと美しく「雨の中の虹」とか「銀製の赤く柔らかな唇」という程度にしておいた方がよかったかなと思ってもいるのである。文部省のお役人さん、どうでしょう?)
(この章続く)
 
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