偽鑑先生の作文講座 その四 | |
四、表現技法(修辞法)―比喩表現を楽しもう《3p》 |
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二、お小言をひとつ |
偽鑑先生が、「何を(中身)」よりも「いかに(修辞)」の方を大切にするという考え方をしている以上、当然授業もそういう方向に行ってしまうのである。君たちが提出する作文に関しても、内容に特別な制限をくわえなかったりするのも、内容よりも文章の修辞を重視する立場に立っているからなんだと、理解しなくてはいけないのである。(車の話がだめなのは、単に個人的な事情によるものなので、触れないでおくのだ。と言って、昔、交通事故で愛する人を失くしたなんて、ロマンチックでドラマチックで悲劇的な思い出があったりするわけではないのである。) 偽鑑先生は、内容よりも、どんな表現をしてくるかというようなことに注目して、これまで君たちの作文を読んできたのだが、今年は期待はずれだったなぁと、前期に関しては、はっきりと……、恋人に別れを告げるときの哀しさと、癌を告知する医者の辛さとを胸に秘めて、断言してしまうのである。正確には、「今年は」ではなく、「今年も」なのだが、二、三の例外を除いて、大部分の人の作文はつまんなかったのである。言っときますが、「内容がつまんない」のではありませんよ。内容なんかつまらなくても、文章として、表現として「面白いなぁ」と思わせることはできるはずなのです。もう一つ、誤解のないように言っときますが「面白いなぁ」というのは、大笑いするようなという意味での「面白いなぁ」ではありませんよ。偽鑑先生の言う「面白いなぁ」は、今回のテーマである表現としての工夫がされてるな、こんな言い方もあるのか、こんな風に僕は表現できないな、(これは内容にも関わってくるが)なかなか独自の見方をするなあ、ユニークな感じだなあ、というような意味での面白さなのである。 何度も言って申し訳ないが、そういう面白さが君たちの作文には欠けているのである。前回も言ったことだが、これは、読み手の存在をまったく考慮にいれていないという、君たちの創作態度に原因があると思われる。読者の事を意識したなら、きっと何がしかの工夫がなされて当然だろう。ところが君たちは、読者である先生のことなんてこれっぽっちも考えず、単位もらうためにイヤイヤ書きたくないものを書いて、何を書いたって先生は仕事なんだから読むだろうというような気持ちでいるのである。どうです、図星でしょう。そういういやらしい根性でもって、小手先のごまかしで文章を書いちゃいけないのである。それは、「文章に対する冒讀で、人殺しにも等しい犯罪なのである。」なんて、妙に片意地張った意見を吐き出してしまうくらい、文章は大切にしなくちゃいけないと思っている偽鑑先生なのではあるが、それなのにこんな下らない文章を書いているのは辛い。なんて泣き言を言ってる場合ではなく、小手先でのごまかしの文章を書くなんて、そんな失礼なことすると、偽鑑先生が許しても、孔子先生や紫式部やシェークスピアがウラメシヤなんて化けて出てきたり、ひょっとすると記念写真の隅に写っていたりして、ワイドショーに売ってひと儲けしようって、そんなこと言ってると、本当にバチが当たりますよ。 とにかく、もっと読み手を喜ばせる工夫をしなくてはいけないのである。後期は句読点より、むしろその点に視点をすえて、重点的に採点するのである。ついでに支点、力点、作用点なのである。そしてあまりに読み手のことを考えない、美点のないひどい作文のときには、何枚書いても零点や欠点を付けたりするつもりでいるのである。さぁ困っただろう。そこで、そのためにも比喩表現について勉強しようということになったのである。プロの物書きは一体どんな表現の仕方をしてるんだろうと、いろいろな人の文章表現を題材にして見ていき、自分たちも実際にやってみようということなのである。 比喩表現ということになると、おおむね扱うのが詩ということになり、そのうえ君たちに馴染みの深い流行歌の歌詞がでてきたりするのである。さらに流行歌の歌詞ということになれば、愛だの恋だのと、君たちの好きなお話にならざるを得ないので、偽鑑先生は少し憂鬱なのである。愛や恋よりもっと大切なことがあるでしょうが、なんて言うと、愛とセックスより大切なものがこの世にありますかと、キザな源氏の君の幽霊が現れたりしかねない。だからそんな事はけっして言わないが、ただ偽鑑先生の持論として、「愛は論じるものではなく、二人でそっとベットの中で語るものだ」って、これまた顔から火が出るくらいキザでしたね。「そんなことばかり言って、あなたはいつも口ばかりなんだから」と、去っていった女の人がいたりするので、その人のことを思い出して、哀しくなったりする偽鑑先生でありました。 哀しんでいても仕方ないので、いよいよ本題にはいるのである。 | |
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