偽鑑先生の作文講座 その四
四、表現技法(修辞法)―比喩表現を楽しもう《2p》
 
  (「一、(おなじみのなくてもいいような)前置き」のつづき) 
 中国では、早くも紀元前の昔に、孔子先生が(「ギャ―、出た!」って幽霊じゃないんですから、そういう失礼な驚き方はやめなさい。)この問題に関連した発言をなさっているのである。『論語』のなかで(「ギャ―、また出た!」)っていいかげんにしとき、いくら温厚で、優しく、学生思いの、ほとけの偽鑑先生でも、しまいにゃ怒るで。)孔子先生曰く「文質彬彬(ひんぴん)」なのである。「文」とは外見を、「質」とは中身・内容をさし、その二つが「彬彬」(バランスがとれている状態。)でなくてはいけないというのである。内容はすばらしいのに、文章はそれに比べて目茶苦茶というのも困るし、文章はすばらしいのに、中身がつまんないというのもダメだということなのである。「文」と「質」とどちらに片寄ってもよくないというのである。両方がよくなければなんの価値もない、「アーン〜そんな片寄りがあっちゃ、せっかくの文章がだいなしだわ。イジワル〜」と、何故か色っぽいのである。
 そして、こういう考え方は、人間のあり方についてもそのまま当てはまり、たとえばお金は持ってるが不細工な男だとか、カッコはいいんだけど頭悪そうな男だとか、いい大学出てるんだけど貧乏な男だとか、医者の卵だけど背が低い男だとか、なかなか世の中理想どおりの結婚相手なんていなくて、あんまり欲張って理想高くすると、「身の程知らず、自分の顔、鏡で見てみろ!」なんて逆襲されたりするので、自分自身のレベルということも考慮に入れ……なんの話でした?やり直しします!
 朝のベットの中で目覚めた男が、隣で寝息を立てている女の子が昨夜誘った娘とは全くの別人としか思えなくて、「えーっ、こんな女と……一生の不覚だぁ!だまされたぁー」と泣き叫んで後悔してしまうくらいの厚化粧をして、あまりのまぶしさに目を細めてしまうために顔がよく見えなくて、だまされてついていってしまう男続出!というくらにキンキラの小物で飾り立て、そういう派手な外見に比べて、頭の中身の方は、初めからお母さんのおなかの中に置き忘れてきたんじゃないかというくらいカラッポの「外見派手、中身カラッポお姉ちゃん」も困りものだが、人間は姿・形じゃないわ、中身こそが大切なのよなんて、寝起きのまま髪もとかさず、口紅一つの化粧もせずに、大股開いて小僧らしい理屈ばかりこねてる女も鼻持ちならなかったりするのである。
 教育者やマスコミやそのほかの偽善者の多くは、前者のお姉ちゃんばかり問題にするけど、さすがに孔子先生は偉い人で、あくまでバランスが大切だというのである。こういう極端を嫌う孔子先生の教えを「中庸(ちゅうよう)の教え」というのである。(参考までに、偽鑑先生は、やっぱり前者の「中身カラッポお姉ちゃん」の方が困りものだなぁと思っているので、そういう所はしっかり偽善者だったりするのである。)
 孔子先生が、実に当たり前の、だが、それ故にありがたーい教えを垂れてくださったので、ハイ、ハイと言って、これに従うしかなさそうに思えるのだが、実際は時代によって、人によって、「文」が過ぎたり、「質」が過ぎたり、実に様々なのである。つきあう男だって、そう理想ピッタリのは見つからないので、多少の欠点には目をつぶろうなんて事になるように、文章だって、そう簡単には「文質彬彬(ひんぴん)」とはいかないのである。どうしたって片寄りは出るのである。そこで、偽鑑先生の立場はどうなのかと言うと、内容なんてどうでもいい、外側の飾りさえ美しかったら、それだけで文章として十分価値がある。というような、さっき「中身カラッポお姉ちゃん」はいけないと言った事と、真っ向から矛盾するようなことを、文章に関しては思っているのである。偽鑑先生は「外見不細工、中身充実文章」より「外見派手、中身カラッポ文章」の方が好きなのである。(本当は文章だけでなく、お姉ちゃんも派手なのが好きなのかも知れないが、そんなことは口が裂けても言えないのである。今回は文部省という大層なものを意識に置いているので、立場上そういう不謹慎なことは……、ずいぶん言ってるなぁ。)偽鑑先生の立場をわかってもらったところで、話は次の段階へ進むのである。
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