偽鑑先生の作文講座 その四
四、表現技法(修辞法)―比喩表現を楽しもう《21p》
 
  (「九、検証(隠喩―雨・雪)」のつづき) 
 
 学問的にはならないが、ただ普段からの読書の成果が、たかが中島みゆきの詞を読むときでも役に立って良かったなぁとは思うのである。だから君たちも本を読みなさいと言うと、また文部省を喜ばせることになるので、そんなことは偽鑑先生は言わないのである。言わないけど思っているのだということは記憶しておいて損はないのである。
・長い髪を三つ編みにしていた頃に
 めぐり逢えればよかった    (「横恋慕」中島みゆき)
 はい、今度は年齢表現です。単純に何歳だとか、中学何年生だとか、高校生の頃なんて言わずに、少し工夫して「長い髪を三つ編みにしていた頃」というように表現する。何でもないことだけど、文章書くときはこういう工夫が意外と大切です。似たような表現が渡辺美里の曲にもあったはずなのだが、忘れてしまったのである。誰か探してきてください。ボーナスポイントを差し上げます。
 渡辺美里のは忘れたけど、淘淵明の作品は覚えているのである。長い詩なので必要部分だけ挙げます。
阿舒已二八(あじょ すでに にはち)
阿宣行志学(あせん ゆくゆく しがく)
雍端年十三(ようたん とし じゅうさん)
通子垂九齢(つうし きゅうれいに なんなんとす)   (淘淵明「責子」)
 解釈は、当然漢文を履修している学生さんにお願いするのである。漢文を選択している学生さんは記憶していると思いますが、五人の子供の年齢を表現するのにいろいろ工夫を凝らしているのです。プロのもの書きというのは、中国人だろうが日本人だろうが、こんな何でもないところまで気を使っているのです。少しは見習いましょう。
 ずいぶんたくさん書いてきたので、そろそろやめにしたいのだが……、ここまできたら最後もやはり中島みゆきなのである。偽鑑先生が一番好きな歌の解説して終わりにしておくのである。
・肩に降る雨の冷たさも気づかぬまま歩き続けてた
 肩に降る雨の冷たさにまだ生きてた自分を見つけた
 あの人なしでは一秒でも生きてはゆけないと思ってた
 あの人がくれた冷たさは薬のような白さよりなお寒い
 
 遠くまたたく光は遥かに私を忘れて流れてゆく
 幾日歩いた線路沿いは行方を捨てた闇の道
 なのに夜遅く夢の底で耳に入る雨を厭うのは何故
 肩に降る雨の冷たさは生きろと叫ぶ誰かの声
 肩に降る雨の冷たさは生きたいと迷う自分の声
 
 肩に降る雨の冷たさも気づかぬまま歩き続けてた
 肩に降る雨の冷たさにまだ生きてた自分を見つけた
                    (「肩に降る雨」中島みゆき)
 言うまでもなく、主テーマとして歌われているのは、男に捨てられて自殺しようと思ったけど死ねなかったということなのである。中島みゆき、お得意の泣き節、怨み節だとか、陳腐なだとか、内容に関しての批評は置いといて、言葉の使い方に注意してください。「雨の冷たさ」という言葉のリフレーンがやたら象徴的で気になるが、それも今回は触れないでおく。それじゃいったい何が言いたいのかと言うと、自殺がテーマなのに、ただの一度も「死」という文字を使っていないのである。普通なら、あなたがいないので「死のうと思った」とか、「死にたい」と思って線路沿いを歩いたとか、「死ねない」ままで歩き続けていたなんて表現が出てきて当然なのである。ところが、この詩では一切「死」という言葉は使わず、逆にやたらと「生」という文字が使われたりするのである。しかし、「生」「生」と繰り返すほどに「死」の影が際立って、大袈裟に言えば、「生」という文字で「死」を歌っているのである。これはなかなかに技巧的なことなのである。前にも書いた「光によって影を浮かび上がらせる」という手法の一変形なのである。決して偶然そうなったのではなく、きっと意識的にそうしたのだろうけど、仮に無意識の上だったら、その才能はちょっと空恐ろしいような気がするのである。
 似たような例が、「長恨歌」を書いた白楽天にもあって、彼には詩中ただの一度も「鏡」という文字を使わずに「鏡」を歌った詩があるのである。その詩は、漢文の授業でやったので、ここには挙げないのである。
 余談ではあるが、中島みゆきの「肩に降る雨」の歌詞の中の「あの人がくれた冷たさは薬の白さよりなお寒い」という部分、きちんと理解できるでしょうね。去年の学生さんの中には、わかってない人がいたので少し不安なのである。「薬」というのは風邪薬じゃありませんよ。雨に濡れて風邪ひいたんだって、そういう無茶を言った人が去年いまいしたが、ここは「睡眠薬」と理解してあげなくては、あんまりにも中島みゆきがかわいそうですよ。自殺しようと「睡眠薬」を前にして、そのあまりの白さを冷たく感じたり、手首にあてた剃刀の刃がやけに冷たく光ったり、そういう状況が理解できないようじゃ……理解できないほうがいいですね。実感できたりする子はちょっと怖いのである。偽鑑先生は、そういう白さを高校生の時にもう経験していたなぁと、不幸な過去(偽鑑先生は自殺経験者なのかなんて、とんでもない誤解をしないように)を思い出しながら、偽鑑先生十八歳の時の作品から一部分を挙げて、全編の終了なのである。(こういう後味の悪さも格別なのである。)
暗い部屋の中
音はなく
生きてるものもいなかった
冷たい刃のカミソリの刃が
ただ息づくように光っていた
でも ぼくにはもう
そのカミソリを手にするだけの
心もなかった
 
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