偽鑑先生の作文講座 その四
四、表現技法(修辞法)―比喩表現を楽しもう《18p》
 
  (「九、検証(隠喩―人生〜川・坂道)」のつづき) 
 
 また、たとえばここに「乾杯」という曲があるとしよう。この曲をAさんは「とってもいい、もう最高」と言い、Bさんは「つまらん、くだらん」と言うとしよう。この時、AさんもBさんも「乾杯」という曲を正しく理解し、観賞したうえで意見を述べているのだとしたら、個々の意見はそれぞれに尊重しなければいけないし、趣味の問題だと言って片付けてしまうことも可能だ。だが何を隠そう、Bさんは、まともに「乾杯」という曲を聞いたことは一度もなく、ましてじっくり歌詞を見たこともない。ただ単に世間の評判とあやまった先入観で、「乾杯という曲はつまらん、くだらん」と言っていたのである。そうなると、Bさんの意見など尊重する必要は全くなく、むしろそんなへそ曲がりの頑固者のことは無視しといたほうがいいのである。そこで、ひょっとすると、長淵剛が大嫌いだという思いが、偽鑑先生をBさんと同じ状態にしているのかもしれないのである。
 「長淵剛のPという曲はくだらん」と言う時、それは「自分は『長淵剛のPという曲をくだらん』としか解釈できないほどくだらん人間である。」と言ってるのと同じである可能性も存在するということを忘れてはならない。(この場合あくまで可能性です。たいていの場合、実際に長淵剛のPという曲がくだらなかったり……以下略。)
 ある作品に対して評価を下すという事は、評価を下した自分自身も評価されるという事にもなるのである。だから、長淵剛程度ならどうって事ないが(喧嘩にはなるだろうけど)、『源氏物語』や『論語』のような歴史的評価の定まっている作品を「つまらん」とか「くだらん」などと言って、けなしたり、馬鹿にしたりするのは、よほどの覚悟がないかぎりやめといたほうが良いのである。(覚悟のある人はどうぞ。)それは決して趣味の問題で片付けられる事ではなく、まるで「自分はバッカで〜す」と宣言しているようなものなのである。あるいは、よほど自分の解釈力に自信を持っている自尊心の塊のような人間の仕業なのである。ですから、平穏な社会生活を逸脱したりしたくない人……解りやすく言うと、友達を失くしたり、近所から白い目で見られたり、就職試験の面接で恥かいたり、会社で上司から「能なしのバカOLが」と思われたりしたくない人は、たとえ腹の中でどう思っていようと「おや『源氏物語』をお読みになってる。その上『論語』までたしなんで、へぇ、結構なご趣味してますなぁ。えっ、ワテでっか?いや、いや、あまりに難しすぎて、私なんぞにはなかなか手が出せませんわ、エヘヘ。」と、目尻を下げて愛想笑いでも浮かべて、手をスリスリもみ手の一つでもしといたほうが無難なのである。そういう対処の仕方を覚えるのが、大人への階段を一歩……という事なのである。(ウーン、なんかとんでもないこと教えてるな。)こういう卑屈な人間になりたくない人は、しっかり読書と勉強をしましょうね。(単なる言い訳のつもりが、文部省推薦!PTA歓迎!教師の鏡!になったのである。)
 そこで、偽鑑先生は腹をくくって、鉢巻巻いて、ふんどし締めなお……パンツのゴム代えて、それくらいしっかりと覚悟を決めて、長淵剛の「登り坂」という曲の比喩は、「最低の失敗例である」と大声で断言してしまうのである。これほど挑戦的な書き方もないだろうな。反論はいつでも受け付けているのだ。
(この章続く)
  
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