偽鑑先生の作文講座 その四
四、表現技法(修辞法)―比喩表現を楽しもう《17p》
 
  (「九、検証(隠喩―人生〜川・坂道)」のつづき) 
 
 たとえば、出だしの「傾斜10度」。坂の角度が具体的です。30度もある坂道だと急すぎて、あまりに波乱万丈な人生を予感させるし、平凡な人生には「傾斜10度」くらいがちょうどいいのである。この「傾斜10度」という角度の具体的表現の中には、どんな人生だったかという、いわば何万言もってしても語り尽くすことのできない「人生」という抽象的なものの在り方が表現されているのである。すばらしいですね。
 そして『風呂敷包』。何十年生きても、本当に大切なものはそんなにたくさんはないのだよ。せいぜい「風呂敷」に包める程度でしかないのだ。そして、それでも、その荷物は少しずつは重くなり、そのせいもあって、自慢だった足は「横すべり」する。この「自慢だった足」というのも暗示的ですね。「若いころは気丈な人だったのに、年取ってすっかり気弱になってしまったねぇ」なんて状態や、「お父さんも最近すっかり涙もろくなって、もう年かねぇ」なんて事を思わせたりもするのである。言わば「精神の足腰」なのである。そして最後は、結局「どこへも着きはしない」ような気がするというのだ。こんなにも生きてきて、まだ前が、行き着く先が見えない。あぁ、いったい私の人生って何だったのだろう。という思いで締めくくられる。
 どうです、この解釈力。国語の先生目指す人は、この程度には解釈力を身に付けましょうね。わかりましたか、浦田さん。(サービスなのである。)
 こういった解釈が、果たして当たっているのかどうか、前にも言ったように、あまり気にする必要はないんです。この点に関して、中島みゆき本人も、こう言っているのである。
・これらの詞は、すでに私のものではない。
 何故ならばその一語一語は、読まれた途端にその持つ意味がすでに読み手の解釈
 する、解釈できる、解釈したいETC・・・意味へととって代わられるのだから。
・ ・・・・・ ところが同じ理由によって次のような言い方もできてしまう。
 したがって、これらの詞は、ついに私一人のものでしかない・・・と。
            (『中島みゆき全歌集』所収「詞を書かせるもの」)
 作品は、作者の手を離れたとたんに作者のものではなくなってしまい、受け手個々にとっての、偽鑑先生なら偽鑑先生の「傾斜」という作品になってしまうのです。そして、中島みゆきの「傾斜」は、いつまでたっても中島みゆきだけのものであって、我々には理解のしようがないのである。偽鑑先生は偽鑑先生なりに、誠実に心をこめて「傾斜」という詞の解釈を行ったのである。作者と作品に対して、読者が取るべき、もっとも好ましい態度は、誠実に読み取り、誠実に批判する。ということに尽きると、偽鑑先生は信じているのである。理解できるはずのない、作者本人にとっての作品解釈をしようなどという、そんな愚かな企ては、伝記作者や学者と呼ばれる人達にまかせておけばいいのである。(またまた、ずいぶん真面目になりましたね。無視してください。)
 さて、実は偽鑑先生が本当にショックを受けたのは、最後の三行なのである。人は年をとるとボケる。これはどうしようもない現実なのである。偽鑑先生は脳外科病棟に入院していたので、アルツハイマー症やそのほかの脳の病気でボケの進行した老人をずいぶんと見てきました。偽鑑先生自身もひょっとすると、この若さでそうなってたかも知れないので、(病院の先生は大丈夫だと言ってたが、こんな文章書くようになったのも、脳の回路がどうにかなったせいかもしれないと、時々不安になる偽鑑先生なのであります。)とても他人事ではないのである。その深刻な事態を「哀しい思い出がふえて、頭一杯になってしまい、もう入りきらなくなったので、忘れてしまう以外に仕方がない。」なんて、中島みゆきは捉えてしまい、「悲しい記憶の数ばかり 飽和の量より増えたなら 忘れるよりほかないじゃありませんか」と歌ってしまうのである。いけない事だと言っているのではないのですよ。あるいはそうおっしゃる人もいるかもしれないが、偽鑑先生はそんなきれい事より、この中島みゆきという人の人生や人間を見つめる眼に驚いて、感動してしまうのである。こんなことは、最近のエセロック歌手には逆立ちしたってできないのである。
 それに「飽和量」なんていう理科の教科書に出てくるような言葉を詞の言葉として使って、またそれを違和感なく使いこなしてしまう才能のすばらしさにまいってしまうのである。中島みゆきによって「飽和量」という言葉は新たな命を吹き込まれたと言ってもいいくらいなのである。
 やたら褒めるでしょう。悪口も言うけど、褒めるときは徹底して褒めるのである。しかし、実はただ単にファンなだけなのである。そもそも偽鑑先生には偽鑑先生の限界というものが存在するのである。中島みゆきが書く程度のものは解釈ができても、長淵剛大先生の書くものは内容が深すぎて、全然教養のない、人の心が理解できない偽鑑先生には、まともな観賞すらできないのだ・・・・、という可能性も(ごくわずかではあるが)存在するのである。
(この章続く)
  
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