偽鑑先生の作文講座 その四 | |
四、表現技法(修辞法)―比喩表現を楽しもう《15p》 |
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九、検証(隠喩・擬人法―人生) |
突然人格が変わってしまったと思われるくらい、まるで別人のようなすっきりした文体なのである。文体が変わってしまうくらいに、偽鑑先生はこの詩が好きだったりするのである。じつに授業にふさわしい文章を書いたなぁと、満足感を覚えるほどなのである。この調子を持続させて、次へ行くのである。 ・でこぼこ道や曲がりくねった道 地図さえない それもまた人生 (「川の流れのように」秋元康) ガラッと変わって、美空ひばりでお馴染みの「川の流れのように」なのである。ずいぶん格調が落ちるけど、そんなことはお構いなしなのである。詞だけ読んでいると、何でこんな歌が売れるのか不思議なのである。「大衆は愚衆である」とか、「一億総白痴」なんて言葉信じてしまいそうになったりするのである。ところが、それなのに売れる。この辺のことを谷川俊太郎という現代詩人は次のように言っている。 歌うことを前提にして書かれたことばを活字で詠むのは、歌を聞くのとは全く違った体験を人に強いる。歌の魅力が時にことば以上に、そのメロディやリズムや歌い手の声によっていることは誰もが知っている。……歌はことばの隠している意味と感情を増幅する、あるいは誇張すると言ってもいいかもしれない。…… だから活字になった歌のことばは、ある意味ではぬけがらにすぎないと言えるかもしれない。 (『中島みゆき全歌集』所収「大好きな『私』」谷川俊太郎) わかりましたか。「歌詞だけで歌の評価をしちゃいけない。」ということです。ですから、これからの偽鑑先生もいろいろひどいこと言ったりしますが、それはあくまで歌詞に関してだということを忘れないように。そして、売れる売れない、ヒットするしないという事と、作品自体の価値とは別ものであるという事もつけ加えておくのである。 そこで突然ではあるが、三好達治という詩人の話をしよう。 三好達治は、これも著名な詩人である萩原朔太郎の妹アイに想いを寄せていた、という所から話は始まる。アイは、当時売れっ子の作詞家だった佐藤惣之介の妻として、華やかな暮らしを送っていた。だが、突然の脳溢血で惣之介は他界し、アイは未亡人となった。一方達治は、ずっと以前にアイに求婚して、売れない詩人じゃいやと、相手にもしてもらえず、別な女性と結婚していた。しかし、他の女性と結婚してからも、達治はアイの事を想い続けていたのである。そのアイが未亡人となったという事を知ると、達治は、離婚までして、アイと結ばれようとした。その思いがかない、アイとの同棲生活を始めた、そんなある日の事である。二人の間にこんなやり取りがかわされた。 ――売れないものが、どうして大切なのですか? 現実離れの三好の思いを指摘した。 ――売れるものばかりが、この世で大切だとは限らないのだ。 と、三好は急に低く言うかと見ると、涙が落ちた。 (萩原葉子「天井の花」) 二人の生活は、一年と続かなかったと言います。達治がどんなに愛していても、二人の道は交わろうとはしなかったのです。人間とは哀しい生き物です。愛とは別の論理が二人を引き裂くこともあるという。よい例だと思います。愛する人に自分の作品を理解してもらえなかった哀しさ。前夫で、売れっ子だった佐藤惣之助と比べられた辛さ。そして、「売れるものばかりが、この世で大切だとは限らないのだ。」としか考えられなかった達治の痛切な思い。光太郎にとっての智恵子のようには、アイは達治の作品を理解してはくれなかったのです。愛する人に理解してもらえた光太郎と理解してもらえなかった達治。光太郎と智恵子のような愛もあれば、達治とアイのようなつらい愛もあるのです。 売れるかどうかとは別の価値を持って生きている人が、世の中にはたくさんいるんだということをくれぐれも忘れてはいけません。ついでに、偽鑑先生にむかって、「漢文なんてなんの役にたつんですか」なんて聞くと、「役に立つものばかりが、この世で大切だとは限らないのですよ。」と言って、涙を落とした。なんて事になりかねないのである。 (この章続く) | |
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