『文藝春秋』生活の中の仏教語
 甘露
 
 寒い日の仕事帰りの夕べ、湯気の立ち上る鍋を肴に熱燗をキュッと一杯。そんな時口をついて出てくるのが、この甘露ということばである。あるいはこんな名の飴玉があったようにも記憶するし、甘露煮などという使い方もする。
 一方この甘露ということばは、仏典などにもしばしば現れ、ありがたい如来の説法を「甘露の法雨」と称したり、涅槃にいたる門のことを甘露門などと言ったりする。
 伝統的な漢語の世界での甘露とは、為政者が善政を敷き、天下泰平になったとき、天が降らせる露のことをいう語であった。『漢書』という中国の古い歴史書には、宣帝という皇帝の時、この甘露が何度も天から降ったことが記録されており、この瑞祥によって甘露という年号に改元さえされたという。
 この伝統的な甘露という言葉を、訳教僧たちは、「アムリタ」という、甘く密のような味の食物の訳語として用いたのである。アムリタとは、仏典の注釈書によると、さまざまの苦悩を癒し、長寿をもたらし、死者さえも復活させる甘い霊液であり、常に天人たちはこれを食しているといわれ、いわば不老不死をもたらす霊薬のようなものである。もちろん現世を苦に満ちた迷いの世界と捉える仏教の世界観にあっては、「不死」などというものを願うはずがない。仏教でいう不死とは、いつまでも死なないということではなく、死を(正確には生死を)超越するということであり、言葉をかえればそれは輪廻からの解脱であり、涅槃に至るということであろう。
 仏教が中国に伝わった当初、さまざまな仏教語(サンスクリット語)を漢語に翻訳する際、二つの方法があったようである。ひとつは、「仏陀」や「卒塔婆」のように、もとの音をそのまま漢語に移す音写と呼ばれる方法。もうひとつは、この甘露のように、伝統的な漢語の中から類似した語をえらんで置きかえる意訳という方法である。こうした意訳語からは、何とか外来の教えである仏教を、中国の人々の間に根付かせようと苦労した跡が窺えはしないだろうか。
(2000年2月号所収)

 兎角
 
 「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。兎角この世は住みにくい。」
 夏目漱石「草枕」の冒頭の一節である。この「とかく」に「兎角」という漢字を用いるのは、いわゆ
る当て字であり、最近はあまり見られない使い方である。一方こうした当て字の「兎角」とは別に、由緒ある「兎角」ということばも存在する。漱石先生には申し訳ないが少し智を働かせてみよう。
 いうまでもなくウサギという動物にはツノなどあるはずがない。そこで中国の伝統的古典籍では、ありえないこと、起こりえないことのたとえとして、この言葉を用いる。もちろん絶対ないかというと、時にはあるかもしれないと考えたようで、『述異記』という書物には、「大亀に毛を生じたり、兎に角を生ずるのは、兵乱のきざしである。」というような記事も見える。この亀に毛が生えるというのも、兎角と同じ比喩で、通常「兎角亀毛」と熟して用いられる。
 一方仏典においても、この比喩はよく用いられる。たとえば「言葉は妄想であって、兎角亀毛のようなものである。」(『楞伽経』)とか「補特伽羅(輪廻の主体たる人間)は兎角亀毛のごときものである。」(『毘婆沙論』)といように、その使用例は枚挙に暇がないほどである。
 こうした仏典に用いられる例をみてみると、その根底には世の中に存在するすべてのものー物質的精神的を問わずーは空である、という考え方が横たわっているように思われる。この一切皆空の思想がいかに仏教にとって重要であるかは、その比喩表現の多彩さからもうかがい知ることが出来る。曰く、水中の月、虚空の花、鏡中の像、空中の鳥跡等々。
 この世は兔角のようなもの。一切皆空である。だとしたら何をあれこれと思い悩む必要があろう。そう悟れたなら漱石先生も「兎角この世は住みにくい」などと、つぶやかずに済んだのではないだろ
うか。
(2000年5月号所収)

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