『仏教語おもしろ雑学事典』これも仏教語
  

  愛の悲鳴が聞こえてくる。我々は、愛という言葉に重荷を背負わせ過ぎてはいないだろうか。男女の間のラブも、親兄弟などの肉親関のそれも、儒教の仁も、キリスト教のアガペーも、博愛も郷土愛も、はては人類愛などまでも、すべて愛の一文字に背負わせている。本来それぞれ別の言葉(文字)で表すべき概念である。総じて言うなら、愛とはいつくしみや思いやりの感情であるが、仏教の世界では、そうした感情は愛という言葉ではなく、むしろ慈悲と表現する。

  仏教語としての愛は、苦悩の原因を解き明かす十二因縁(いんねん)の一つとして用いられる言葉。いわば悟りへの障害であり、執着の一つでもある。それゆえ時に「渇愛」(かつあい)や「愛執」(あいしゅう)「愛着」などとも表現される。

 挨拶 
     「挨」も「拶」も、ともに手偏(てへん)に属する文字であり、中国の『説文解字』(せつもんかいじ)
   という古い辞書には「背を撲(う)つなり」と記されている。文字の本義から考えるなら、挨拶とは押し合い、
   へしあいして前に出ようとすることである。
    そこから禅家では、問答によって相手の悟りや学識の浅深を探ることを「一挨一拶」というようになり、
   これがさらに一般に広まり、現在日常で使うような意味に変化したのである。


 愛着 
    仏教語としては、愛著とも書き、愛への執着、愛という執着の意で、我々が普段使うのとは異なり、あまり
   良い意味の言葉ではない。前記「愛」の項目参照。


 有難い 
      国語学の書物によると、室町時代まで、感謝の意では「かたじけない」という表現がよく使われたようで、
   「有難い」が使われだすのは江戸元禄期以降だという。
    本来は文字通り、有ることが難(かた)い、めったにないという意味で、もっぱら仏法との出会いの喜び
   [法悦](ほうえつ)を表していたようである。それが元禄期の文化大衆化の時代に日常語化していった。


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