『文藝春秋』これも仏教語
 安心 
     中国の古典などにも古くから見られる言葉で、一般には不安がなく心静かな状態をいう。
    仏教語としては、迷いやそのもととなる執着や無知・無明(むみょう)などの障害を取り除いた悟りに近い状態をいう言葉である。
     仏教では「あんじん」と読むことが多い。

 意地
     「意」は次項でも述べる第六識・意識のこと。「地」は大地・地面のことであるが、意識はすべての行動などの出発点・立脚地であ
    ることから両者をあわせて意地という。
     しかし、現在日常的に使われる意地の地は、「意気地」(いくじ)や「意固地」の地と同様に頑固に凝り固まったものを意味し、あま
    り良い意味で使われることはなく、仏教語の意味とは少しズレがみられる。

 意識 
     人間は五つの感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身)によってさまざまな外界のあり様を認識する。一般には五感と呼ばれるが、これを仏
    教語では五識という。
     この五識をもとに人はいろいろな思慮を起こすのであり、その最後の思慮の働きを五識とは別に、六つ目の識として意識と呼ぶ。
 有為転変 
     仏教がインドから中国へ伝来した当初、サンスクリット語で表されるさまざまな概念をいかに中国語に翻訳するかが重要な問題
    であった。一つの方法は、娑婆(しゃば)や卒塔婆(そとうば)のように、音をそのまま漢字に置き換える音写という方法がある。し
    かしそれでは意味のほうが伝わらないため、それまで使われていた近い意味の言葉を借用するという方法も用いられ、その際多く
    は老荘思想の用語が借用された。
     この有為(うい)も老荘思想の無為に対する有為(ゆうい)を借用したものである。ただ老荘思想では人為的な行為をいう語であっ
    たが、仏教では人為のみならず、さまざまな因縁による森羅万象一切を意味するようにした。そして、こうしたすべての物事は、け
    っして一定不変ではなく、常に移ろいゆくものであり、無常なものであるというのが、仏教の最も基本的な立場である。いわゆる諸
    行無常という言葉と同様な意味で用いる。
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