三教指帰注集の研究 | |
第三章 『三教指帰』古注三種について《2p》 | |
二、「勘注抄」と「成安注」の関係 |
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「勘注抄」と「成安注」の関係を考える際に留意すべき第一の点は、どちらの注釈が先に成立したかという点にある。「成安注」の成立は、その序文から寛治二年(一〇八八)であることが明確になっている。一方、「勘注抄」はその成立年次は明らかではなく、撰者敦光の生卒年(一〇六三〜一一四四)から推測する以外に手立てがない。 敦光の伝によると、成安注の製作された寛治二年には、敦光は未だ文章得業生にもなっておらず、官界に入るための対策に及第するのもこれより後寛治八年のことである。また、「勝賢本」「勘注抄」の表紙裏書から、敦光宗観上人なる人物の勧めによって「三教指帰注」を製作したことが知られるが、敦光と宗観上人の関係は、太田・稲谷両氏の研究によれば、十二世紀前半を中心としており、「勘注抄」の成立は成安注の成立よりわずかではあるが後のことであると考えられる。 次に、両者の関係をその注釈内容から考えてみることにする。同一の作品に対する注釈であることを考えれば、その注釈も―具体的にはそこに引用されている諸々の典籍も―ほぼ同一のものであろうと推測される。ところが実際に比較してみると、むしろ、両者の引用は一致しない部分の方が多い。その詳細については巻末に挙げる比較表を参考にしていただくこととして、ここにはその二、三の例を挙げるにとどめる。 まず、『三教指帰』序文の第一節の「文之起必有由 天朗則垂象 人感則含筆」に対する両者の引書を挙げる。 勘注抄(尊経閣本) 成安注これらの引書のうち、両者が一致するものはわずかに『易』だけであり、その『易』の引書もその引用されている文章は全く別の部分からである。 また、ある人物の伝記を記す際にも、―例えば上巻に登場する「戴淵」について、勘注抄は『晉書』を引いているが、成安注は『世説』を引いているように―全く別の書物による場合が多い。 こうした単なる引書の違いだけではなく、本文解釈の根幹に関わるような違いも見られる。一例を挙げると「筆謝除痾 詞非殺將」という部分の「将を殺す」という二字の解釈に関して、「勘注抄」は『史記』に見る魯仲連の故事を引いて、文字どおり「将軍を殺す」と解している。一方、「成安注」は『?玉集』を引いて、秦の始皇帝の庶子である将閭の故事を挙げ、「将」の字を「将閭」という固有名詞と解釈している。対句となっている前の部分から考えても、「勘注抄」の解釈の方が妥当であろうし、後世の解釈もすべて「勘注抄」に拠っているようである。こうした両者の間の引書・解釈の違いは、成安が敦光の注を意識して行ったものと考えるよりは、むしろ注釈者の学識の違いによるものと考えられる。 さらに、成安が「勘注抄」を目にしていなかったということを示す別の例がある。上巻「縱之翫書」という句に見える「縱之」という人物について、成安は「縱之人名未詳」と記すのに対し、勘注抄では『漢書』『良吏傳』等を引いて注解を加えている。仮に成安が「勘注抄」を目にしていたなら、決して「未詳」という書き方はしなかったであろう。こうした諸々の観点から、筆者は「成安注」は「勘注抄」より以前に成立していた可能性が高いものと考える。 最後に、第一章でも述べた「成安注」の頭注・脚注等に書き込まれている「勘注抄」からの引用についてふれておく。上巻本の奥書きに「及耄愚餘齡合勘注抄料簡了 同八十二 仁平元年四月二十七」とあることから考え、第二章でも述べたように、これらの頭注・脚注の一部はもともと「成安注」にあったものではなく、「大谷本」を書写した厳寛が書写完了後二十年ほどしてから―仁平元年は一一五一年―書き加えたものである。(「勘注抄」からの引用であることが明確な例については、第二章に掲出しておいたのでここでは省略する。)余談ではあるが、「勘注抄」の成立時期から考えて、この仁平元年という校勘時期は、「勘注抄」の引用例としても早い時期に属する。 | |
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