三教指帰注集の研究
第三章 『三教指帰』古注三種について《1p》
 
 一、『三教指帰』の各注釈の概略
 
 『三教指帰』の注釈として、比較的早い時期に成立したものに「成安注」「勘注抄」「覚明注」の三種がある。これら三種の注釈は、後世の他の注釈や『三教指帰』研究の基礎的役割を担ってきたものである。そこで、考証をすすめていく手続き上、これらの注釈を「古注」と呼称することにする。
 これまで個々の注についてはいくつかの研究が発表されているが、これらの内容・関係を比較したものは、管見の及ぶところでは太田次男氏に二、三の論述があるに過ぎない。そこで個々の注釈の概略について述べておく。まず初めにいわゆる覚明注についてであるが、その撰者・成立時期については太田次男氏の次の論文に詳しい。
「釈信教とその著作について―附・白氏新樂府二種の翻印―」(「斯道文庫論集」第五輯)
 覚明注の詳細については太田氏の論述に讓ることとし、ここではその内容に関してのみ記すこととする。覚明注の内容がいかなるものであるかを端的に表しているものに、江戸時代に広く用いられた『三教指帰刪補』の序文があり、そこには以下のように記されている。(注1
先藤吏部敦光及成安各選注解後覺明采輯二家合爲一部
(先の藤吏部敦光及び成安各々注解を選す 後覺明二家を采輯し合して一部と為す)
 これによると、「覚明注」は、先行する注釈書である「勘注抄」・「成安注」の二種を勘案し、その上に独自の注解を加えたものである。現在、「覚明注」の一部に見られる「光―」・「安―」と冠した注釈が、先行する二種から「采輯」したものである。しかし、実際には「光―」の冠していない部分にも「勘注抄」の残巻と一致するものがあることを、すでに太田氏が指摘されている。一方、「成安注」からの影響については長く手つかずの状態であった。そのため「勘注抄」からの引用以外のものは覚明独自の注であると、これまでは考えられてきた。しかし、「勘注抄」からの場合と同様に、「安―」と冠していない部分にも、「成安注」からの引用が相当数あろうということは容易に想像される。そこで、実際にはどれほどの注解が、「覚明注」の中へ取り込まれているかを明らかにする必要がある。そこで大谷大学所蔵の正保二年刊の「覚明注」と、現在翻印されている三種の「勘注抄」および大谷大学所蔵の「成安注」の三者を比較対照することとした。
 次に、「勘注抄」については、現在までに次の三種が翻刻紹介されている。
一、高野山宝寿院所蔵平安末鎌倉初間写本
    (『真言宗全書』第四十巻所収) 以下「宝寿院本」と略称
二、霊友会所蔵平安末写本
    (太田次男・稲垣祐宣「平安末写三経指歸勘注抄について」
     『成田山仏教研究所紀要』五、昭和五五―二) 以下「尊経閣本」と略称
 これら「勘注抄」の撰者・成立時期等についても、それぞれの翻刻論文に詳しい。それによると「勝賢本」は、表紙裏・中巻末にある識語から、「敦光朝臣が宗観上人の勧によって作った『三教指帰』の注を、沙門勝賢が初学者のために抄出したものとなり、その年代は長元二年春三月上旬であるという。」
 敦光の生卒年は、康平六年(一〇六三)から天養元年(一一四四)であることから、「勘注抄」はこの間に作成されたものと考えられる。とすると、勝賢の抄出した「長元二年」(一〇二九)という年代と矛盾を生じることとなる。この点に関して太田次男氏は、「長元二年」は「長寛二年(一一六四)」の誤りではないかと論述しておられ、筆者もその意見に従うこととする。
 「勝賢本」以外の二書も筆写の年代が明確ではないが、何れもほぼ同時期のものと考えられている。しかしながら、現存する三種の「勘注抄」はいずれもが完本ではなく、その一部が残されているに過ぎない。すなわち「宝寿院本」は巻上部分、「尊経閣本」は巻上前半部分のみ、「勝賢本」は巻中部分までが残存しているだけである。また三種の内容・形式も、完全に一致するわけではない。「宝寿院本」「尊経閣本」の二種が、「三教指帰」の全文を挙げての割注形式であるのに対し、「勝賢本」は難語のみを摘出して注を施している。またその内容も「勝賢本」が抄出本であるためもっとも簡略で、「尊経閣本」と「宝寿院本」はほぼ同一であるが、「尊経閣本」のほうに数十条の増補部分がある。そこで実際の比較資料としては、巻上前半部分は「尊経閣本」を用い、それ以下は「宝寿院本」を用いることとした。こうした資料との比較の結果について、以下に述べることとする。
 
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【注釈】
注1 『真言宗全書』巻四十所収