三教指帰注集の研究 | |||||||
第二章 「成安注」の写本三種について《4p》 | |||||||
(「三、尊経閣文庫蔵本について」の続き) |
|||||||
最後に、「大谷本」・「尊経閣本」に見える頭注・脚注について考察を加えることとする。「尊経閣本」に見える頭注・脚注のうち、「大谷本」に存在しない例が二例ほどあるが、この二例はいずれも朱筆を含むものであり、後世の書き込みである可能性が高い。(注4)逆に「大谷本」のみ存在する頭注・脚注の例は認められない。ただし「大谷本」にある「或文云楚國李■(耳へんに冉)開虚玄於五岳」のみは太田氏の翻刻中には挙げられていない。しかし「尊経閣本」の原本を調査したところ、該当する脚注部分に大きな虫食いの跡が認められ、かつてその部分に「大谷本」と同様な書き込みがあったことを示す「■(耳へんに冉)」「玄」「於」等の数個の文字を読み取ることができた。 「成安注」に見える頭注・脚注の多くは、そのまま後の「覚明注」にも受け継がれている。「覚明注」において「安―」として引かれるものの中には、この「成安注」の頭注・脚注を省略したものではなく、「大谷本」・「尊経閣本」系統のものであったことは明らかである。言い換えるならば、覚明は頭注・脚注をも「成安注」の一部であると理解していたということになる。(「覚明注」と「成安注」の関係については後に述べる。) では、これら頭・脚注は、はたして誰が書き込んだものであろうか。その一部には「大谷本」を書写した厳寛の手による書き込みであると判断できるものがある。厳寛は「成安注」を書写した後、二十年ほどしてから「勘注抄」との校勘を行っていることが上巻本の奥書き(第一章参照)から知られ、頭注・脚注の一部はこの時に書き込まれたものであろう。 以下に、その具体例を挙げる。(「勘注抄」の略称については第三章参照) ○休暇之日勘注抄 大唐六典文也残念ながら現在のところ「勘注抄」の下巻部分は発見されておらず、比較検討できる資料は限られているが、これらの例については厳寛が「勘注抄」との校勘を行った際に書き込んだものと判断できる。しかしながら、他のすべての頭注・脚注も「大谷本」を書写した厳寛の手によるものであると断定することはできない。その第一の理由は、次に挙げる例のように「成安注」の頭注・脚注と同文のものが「勘注抄」の中に存在しないためである。 覺明注こうした例に見える頭注・脚注は、少なくとも「勘注抄」との校勘を行った際に書き込まれたものでないことは明らかである。 また、仮にすべての頭注・脚注が「大谷本」を書写した厳寛の手によるものだとすると、全く同じ頭注・脚注を持つ「尊経閣本」は、「大谷本」を直接ではないにしろ同系統のものを書写したということになる。ところが、「尊経閣本」は「大谷本」と非常に近い関係にはあるが、決して同系統にある写本だとは考えられない。それは次に挙げるような注文の異同から明らかであろう。
この例では「尊経閣本」のほうが「大谷本」より長文になっている。「尊経閣本」を書写した人物がわざわざ原典を見て書き加えたとは考えにくいことから、「大谷本」のほうに脱文、あるいは省略があるものと考えられる。この例だけから判断するなら「尊経閣本」の方が「成安注」本来の姿を残しており、それについで「天理本」、「大谷本」という順番になるであろう。しかしながら現実に書写された年次、全体的な内容―具体的には、先にも述べた誤写の問題等―から考えて、「大谷本」が最も古いものであると考えられる。いずれにしろ「尊経閣本」は「大谷本」を(直接か間接かは別として)書写したものでないことだけは確かである。(この項続く) | |||||||
![]() ![]() |
|||||||
【注釈】 注4 尊経閣本のみに存する頭・脚注。 世本曰 蚩尤造甲河圖云蚩尤獸身人語……驪龍黒色無角雌龍也驪黒色也 (驪龍以下朱筆) (「大谷本」では巻下36葉部分) 廿七宿爲一舎劉子云夫將者国之安危民之性命不可不重 (全文朱筆) (「大谷本」では巻下37葉裏面部分) |