三教指帰注集の研究 | |
第二章 「成安注」の写本三種について《2p》 | |
三、尊経閣文庫蔵本について |
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「尊経閣本」は巻下のみの写本であり、その内題は「天理本」と同様に単に「三ヘ指帰巻下」のみ記され、「成安注」であることを示すような記載は一切見られない。また、尾題には「注三教指帰巻下」とあり、太田氏はこの尾題をもって仮りの書名として紹介されている。参考までに、「大谷本」の内題等について触れておくと、正式な書名である「三教指帰注集」という内題を有する部分は上巻巻等の内題と上巻末の尾題だけであり、下巻部分の尾題には「尊経閣本」と同じ記載になっている。「尊経閣本」が「成安注」の写本であると長い間知られなかった原因のひとつは、この内題の不統一さにもあると考えられる。 「尊経閣本」には内題下方に「仁和寺心蓮院」の朱印がみられ、また本来は巻子本であったものを江戸時代に折帖に改装したものであることを示す、次のような識語が見られる。 寛永十一年十月上旬/令修補之刻新爲折/ 本了これ以外には書写の年次を示すような記載は一切存在しないが、太田氏は鎌倉初期の書写であろうとして紹介しておられる。 この「尊経閣本」は、日本古典文学大系の『三教指帰』の解説部分では「勘注抄」であるとして紹介されているものであるが、太田氏はこれに疑問を呈し、また「覚明注」の一種ではないかという意見についても一考を要するとし、結論として「当時の有力寺院において行われた、三教指帰に対する、一種、読み合わせの記録されたものと見做してよいのではなかろうか。」と推測されている。(注3) 「成安注」の詳細な内容が明らかになっていなかった当時にあっては、「勘注抄」・「覚明注」とは異質な注釈であることを指摘しておられるのは卓見と言うべきである。また「寺院での読み合わせではないか」との推論も、下巻のみを対象とした推論であることを考えれば当然のことであろう。太田氏がこうした推論を導き出した理由は、大きく分けて二点挙げられる。第一は、他の注釈(特に覚明注)に比して加注の分量・密度が極めて低いという点。第二に、注文の内容、あるいは「内典」という語の使用例の多さから仏門に身をおくものの手による可能性が高いという点である。こうした指摘は、実のところ「成安注」の一面を的確に捉えたものでもある。 「成安注」の注釈は上巻部分が最も詳細であるということについては第一章にも述べたが、その理由については、注釈作成の動機としてあげた序文から明確であろう。(第一章に引く序参照)すなわち、施注の際に成安の念頭にあったのは「儒筆最繁 本文至多 庸愚難悟 末學易迷」ということである。この「儒筆」とは、儒仏道三教のうち儒教を中心にして書かれている上巻部分を指しており、この上巻部分の注解こそが、「成安注」の主眼だったのである。また、成安自身が僧籍に身を置くものであり、またその注解の利用者として念頭に置いていたのも自らと同じ僧籍にある者たちだったと思われる。それを示す注釈の例が下巻部分に見られる。『三教指帰』の本文「曾成之道始八相」の「八相」に対する注がそれであり、成安は「八相可知(八相知る可し)」と記すのみである。この一例からも、「成安注」が学僧を主要対象として施注していることを窺い知ることができる。「尊経閣本」や「天理本」が上巻部分を欠いて、下巻部分のみを伝存しているもっとも主要な原因は、下巻こそが仏教優位を説く最も重要な部分であるという寺院一般の認識にあるものと考えられるが、この認識は上巻に注釈の主眼を置いた成安にとって不幸なことであったと言わざるをえない。(この項続く) | |
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【注釈】 注3 前項注2論文参照。 |