三教指帰注集の研究
第一章 大谷大学図書館蔵本『三教指帰注集』解説《3p》

 三、書写
 
 
 『三教指帰注集』を書写をした厳寛なる人物についても、詳細は明らかではない。(注4)ところが、東寺観智院に蔵する『五大尊事』の奥書に、次のような一文が収められている。(注5)
永久六年正月十九日 於彌勒寺谷房書写了
        南樂房僧都御抄也 入室嚴寛
 参考として、「大谷本」上巻本の識語の一部をあげる。
長承二年十月七日 於彌勒寺谷房移點了
           金剛佛子嚴寛
 両者は、時期的にも……永久六年は一一一八年・長承二年は一一三三年である。……また、書写した彌勒寺谷房という場所も一致する。さらに、筆者が、京都府立総合資料館に保管されている『五大尊事』奥書部分の写真と「大谷本」奥書を比較したところ、その筆跡は同一人物の手によるものであった。また、この『五大尊事』の訓点の施し方……仮名・返点は墨で、ヲコト点(円堂点)は朱で施す。……も、「大谷本」と全く同一である。
 次に書写された年次であるが、四帖それぞれの識語を以下に挙げる。
上巻本
   長承二年十月七日於彌勒寺谷房移點了
          金剛佛子嚴寛 六十四
     及耄愚餘齡合勘注抄斷簡了
              同八十二
           仁平元年四月二十七日
上巻末
   長承二年二月四日於彌勒寺谷房書寫畢了
             金剛佛子嚴寛
               行年六十四
       同十一月七日辰刻移點畢
中巻
   長承二年四月十日於彌勒寺谷房書寫畢
           真言宗金剛佛子嚴寛
                年六十四
      同十一月十二日於同所移點畢
下巻
   長承三年六月七日於彌勒寺谷房書寫畢
         金剛佛子嚴寛 行年六十五
 さらにこれを整理してみると、以下のようになる。

  長承二年(一一三三)二月   上巻の書写終了
  同年四月           中巻の書写終了
  同年十月           上巻本の移点終了
  同年十一月七日        上巻末の移点終了
  同年十一月十二日       中巻の移点終了
  長承三年六月         下巻の書写・移点終了
  仁平元年(一一五一)四月   勘注抄と校勘

 これらの奥書きから気づくことを二、三記す。まず第一に、「大谷本」は「成安注」成立より四十数年ほど後の写本であり、「成安注」本来の姿を良く残したものであると考えられる。また、これまで報告されている『三教指帰』の写本のうち、空海の真蹟であると言われるものを除いて、もっとも古いものは天理図書館所蔵の仁平四年(一一五四年)のものであり、長承二・三年の奥書きを持つ「大谷本」はこの点からも非常に価値の高いものであるといえる。
 第二に、書写と移点が別々に行なわれているが、この移点の時に書写の際の字句の誤脱や重複・転倒等の誤りを訂正したと思われ、そうした書き込みが行間にしばしば見られる。また後に述べる頭注・脚注のいくつかもこの時点で書き込まれたものと考えられる。
 第三に、書写・移点の作業から十数年後の仁平元年に「勘注抄」との校勘作業が行われており、その際に書き込まれたと思われる頭注・脚注が一部に残っている。「勘注抄」との関係については後に述べる。
 第四に、上巻末には「書写畢」の奥書きがあるが、上巻本の部分には書写に関する奥書きが存在しないという点は特に注意が必要であろう。移点に関する奥書きは本・末両者に見られるのに対して、書写については上巻末にだけ存在するというのはどういう理由からであろう。
 これに対する最も簡単な解釈は、単に書写した厳寛が書き落としたのだという解釈である。実際に、下巻部分には書写に関する奥書きはあるが、移点に関する奥書きは存在しない。しかし、この問題は上巻部分が本来の二帖に分冊されているという問題とも関連し、単なる書き落としと即断するのは危険である。
 この本末二帖に分冊されている部分は、『三教指帰』本文の内容からは何ら分断されるような必然性は持っていない。すなわち、分冊の理由は単純な量的問題からだと考えられる。「成安注」は、そもそも上巻部分に施された注釈が最も多く、中・下となるにつれて簡略になるという傾向がある。本来、『三教指帰』本文自体は下巻部分が最も長く、上巻の二倍ほどの分量がある。それが「成安注」では上巻部分が最も長く、本末を合わせると九十葉を越える。そのためほぼ中間の四十六葉までを上巻本とし、以下四十四葉を上巻末としたのであろう。
 ここで注意すべきもう一つの点は、上巻部分が本末の二帖に分冊された時期についてである。分冊の原因が量的な問題にあることは明らかであるが、より重要なのはこの分冊がいつ行われたものなのかという点である。これについては次の三つの可能性が考えられる。
(1) 厳寛が書写する以前に、原本自体が分冊されていた。
(2) 厳寛が分冊した。
(3) 厳寛の書写より後、後世に分冊された。
 このうち、上巻本の末尾に厳寛の手による移点に関する奥書きが存在することから考えて、(3)の仮説は成立しない。仮に(1)であるとすると、上巻本に書写の奥書きが存在しないのは、単に厳寛の書き落しであるということになる。一方(2)と仮定すると、別の解釈が成り立つ。すなわち書写の段階では―言い換えるなら厳寛がみた原本では―二帖に分冊されてはおらず、厳寛はとりあえず上巻自体をひと続きとして書写したため、上巻末にのみ書写に関する奥書きがあり、途中の上巻本の末尾には存在しない。さらに上巻本の部分には移点の奥書きがあることから考えて、本末二帖に分冊されたのは、恐らく移点を行った時点か、あるいはその前であろうと推測できる。
 この上巻部分の分冊に関連して、さらにもう一つの問題点を指摘しておく。「大谷本」では、この本末に分冊された部分に『三教指帰』本文が二十字欠落している。その部分を次に挙げる。
春馬夏犬之迷 已煽胸臆 老猿毒蛇之觀 何起心意
 このうち後半部分は「老猿毒蛇之觀何起心意 無注」として表紙裏面に書き込まれているが、残りの部分は完全に欠落している。仮に厳寛の書写以前に分冊が行なわれていたと仮定するなら、書写する際に上巻本の末尾、ないしは上巻末の巻頭に当たる部分を二十字にも渡って(注解が加わっていたとするとさらに多くの分量を)見落とすとは考えられないことから、あるいは原本自体に欠落があったということになる。また分冊を行ったのが厳寛自身であると仮定すると、その分冊の際にこの二十字を含む一葉分を欠落させてしまったということになる。
 現在のところ、「大谷本」以外の写本はすべて上巻部分を欠いており、以上述べた仮説のうち何れがより妥当か断定することは困難であり、性急な結論を述べることは避け、仮説として提示するにとどめることとする。
 
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【注釈】
注4 『国書逸文研究』第十六号に発表された『文字集略』の逸文集解説の中で、森田悌氏は「大谷本」を「勧修寺大僧都嚴覺自筆本である。」と紹介しているが、勧修寺大僧都嚴覺の生卒年は、天喜四年(一〇五六)から保安二年(一一二一)であり、森田氏の記述は誤りである。
注5 東寺観智院所蔵の『五大尊事』の奥書は、『東寺観智院金剛蔵聖教目録』十七(昭和六十年 京都府立総合資料館編)に翻字されている。ただし、その目録では「嚴寛」ではなく、「嚴究」となっている。著者が同資料館に保管されている写真によって確かめたところ、その文字は明らかに「大谷本」と同一であった。そこで、この奥書の文字と「大谷本」の本文各所に現われる「寛」「究」の文字と比較検討を行い、その結果「嚴寛」であると判明した。