三教指帰注集の研究
第一章 大谷大学図書館蔵本『三教指帰注集』解説《2p》

 二、成立及び施注者
 
 
 施注者である釈成安がいかなる人物であったか、その伝記等は詳らかではない。(注2)しかし、上巻の巻首に付されている序文の末行から、この注釈が作成されたのは寛治二年(一〇八八年)のことであると判明する。(注3)現在最も古い『三教指帰』の注釈書は、藤原敦光の手による「勘注抄」であると考えられている。「勘注抄」の成立時期は明確になっていないが、敦光の生卒年から考えて康平六年(一〇六三)から天養元年(一一四四)の間と推測される。とすると「成安注」成立の寛治二年という時期は、敦光注に先行する可能性が大きいと考えられよう。(「勘注抄」と「成安注」の関係については後に述べる。)
 また、この序文中には、次のような興味深い記述が見られる。それは、この注釈の成立に関する部分である。
 ……爰有一禪僧 其人命日 是三教論 儒筆最繋 本文至多 庸愚難悟 末學易迷 迄汝考本書可集注者 余雖云恥不才 憚後葉譏 依難背命旨 憖以承諾 而間重有夢想之告 因茲彌勵愚才 倍傾微管 聊以集注之 其所未詳 闕委後哲 編成兩軸 名日三教指歸注集・・・・・・
 (……爰に一禪僧有り。其の人命じて曰く「是れ三教論は、儒筆最も繋く、本文至って多し、庸愚悟り難く、末學迷い易し、乞うらくは汝 本書を考し、集注すべし。」余自らの不才を恥じ、後葉の譏りを憚ると雖云も、余旨に背き難きに依り、憖に以て承諾す。而も間々重ねて夢想の告有り。因て茲に彌いよ愚才を勵まし、倍ます微管を傾け聊さか以て之に集注す。其の未だ詳らかにせざる所は、聞きて後哲に委ね、両軸に編成し、名前をつけて三教指歸注集と曰う……)
 この一文によると、成安の注釈作成に当たっては、第三者からの強い要請があったことが伺われる。本文に見える「一禪僧」とは果たして誰なのか、序の他の部分でも一切触れられていない。またなぜ明確な名を記さず、「一禪僧」とのみ記したのか、こうした疑問点に解決を与えるヒントとなる一文が、上巻表紙裏面の書き込みに見られる。
 此序是南岳坊(房?)筆也非成安作 元序成安草 南岳房將來精談
  (此の序は是れ南岳房が筆なり。成安が作に非ず。元序は成安草す。南岳房房將來精談す。)
 この書き込みとほぼ同じ内容の一文が、上巻本巻末の識語中にも見られることから、この一文は「大谷本」を書写した厳寛の手による書き込みであると考えられる。この厳寛という人物は、後に挙げる東寺観智院旧蔵の資料から考えて、南岳房濟暹(一〇二五〜一一一五)の弟子の一人であると判断でき、この書き込みの信憑性は非常に高いものと思われる。この書き込みから考えると、巻頭にある序文は、施注者成安の草案である「原序」に手を加えるというような行為は、決して施注者成安に無断で行なわれるようなことではありえず、済暹と成安の間にも子弟関係に近いかかわりがあったものと考えるのが自然である。
 とすると、序文の中に見える成安に注釈の作成を強く勧めた「一禪僧」とは、あるいはこの南岳房濟暹ではなかったかと推測される。先にも述べたように、「成安注」が成立したのは寛治二年(一〇八八)であるが、南岳房濟暹は、これに先立つ承暦三年(一〇七九)に『遍照発揮性霊集』の『補闕集』三巻を編し、さらにその注釈書である『顕鏡鈔』を著すなど、この時期盛んに空海の著述に関する研究を行なっている。こうした背景も考慮にいれるなら、この「一禪僧」が南岳房濟暹である可能性はより大きくなるであろう。そう考えると、序文の中であえて「一禪僧」といった記述をしている意義も明らかになろう。
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【注釈】
注2 柳田征司「中山法華経寺三教指帰注の成立―院政期までの注釈活動―」(『中山法華寺蔵本三教指帰注総索引及び研究』武蔵野書院所収)において成安についての推論が述べられているが、成安注の序に述べられて時期と一致せず、その説には賛意を表することはできない。
  また、『明月記』元久元年十一月三十日の条に「成安」という僧の名が見えるが、元久元年は一二〇四年であり、各巻識語中に見える年代と一致せず、別人である。
  また「大谷本」の各帖表紙には、「寶泉院宗秀」という名が見えるが、成安との関係などくわしいことは、未だ明らかになっていない。
注3 『三教指帰注集』序文末行。
      干時寛治二年戊辰孟冬朔日