大谷大学所蔵「老子八十一化図説」について【4P】
  第三節 第四十五化の分析二節 
 第四十五化の場面は、「弘釋教」と題されているが、実際は老子が釈尊に転生した場面を画いたものであり、第十八化と好対照となっている。
 ここでもまず解説文の分析から始めることとする。現行本の解説文は以下のようなものである。
 
    第四十五化  弘釋教
  太上老君、將欲再弘浮屠教法、
  以周莊王九年、乃於梵天、命煩
  陀王、乘月精、騎白象、託■(まだれに陰)
  天竺國摩耶夫人、爲淨梵
  王之子、至十
  年甲午四月
  初八日、生
  於右脇
 
    第四十五化  釋教を弘む
   太上老君、將に再び浮屠の教法を弘めんと欲し、周の莊王九年を以て、乃ち梵天に於いて煩陀王に命じて、月精に乘じて、白象に騎し、天竺國の摩耶夫人に託■(まだれに陰)し、淨梵王の子と爲る。十年甲午四月初八日に至りて、右脇より生まる。
 『至元弁偽録』においては、「第四十五化云」と明記されて引用された記事は見られないが、巻二に次のような引用が見られる。
    第三十四化云、老君……又云、老君至舎衞國、自化作佛、坐七寶座、身長百千萬丈、遍滿虚空、又云、老君將欲再整釋教、以周莊王九年、乃於梵天、命煩陀王、乘月精、託■(まだれに陰)天竺摩耶夫人胎、至十年四月八日、右脇誕生、後入雪山、修行六年道成、類佛陀、衆號末牟尼、至匡王四年、解化太上、昇賈奕天、爲善惠仙人
 吉岡・窪両氏はそれぞれの対照表において、この部分をすべて第三十四化に属せしめている。おそらく二つある「又云」をすべて第三十四化に「又云」であると考えてのことと思われるが、しかし、第一章第二節の注二十四で論じたごとく、この「又云」は別の第○化に「又云」、あるいは『八十一化図説』に「又云」の二つの意味を含むものであり、機械的に第三十四化からの引用文であると考える必要はない。
 最初の「又云」については、現行本第四十三化に次のように該当する記事が見える。 
    第四十三化  舎衛國
  太上老君、於舎衛國、自化作佛、従天而降、天人侍衛、到其宮中、坐七寶座、王與群臣、遶佛瞻仰、其身長百千丈、偏滿虚空、 
 とすると、この「又云」は第三十四化に「又云」ではなく、『八十一化図説』に「又云」であるように、それに続く二つ目の「又云」も実は第三十四化ではなく、内容・順序から考えて第四十五化からの引用であると考えても無理はないであろう。そこでこの『至元弁偽録』の引用を第四十五化からのものと考えて、現行本と比較対照してみよう。
 
現行本解説文 『至元弁偽録』
太上老君、將欲再弘浮屠教法
以周莊王九年
乃於梵天
命煩陀王
乘月精
騎白象
託■(まだれに陰) 天竺國摩耶夫人
爲淨梵王之子
至十年甲午四月初八日
生於右脇


老君、將欲再整釋教
以周莊王九年
乃於梵天
命煩陀王
乘月精

託■(まだれに陰) 天竺國摩耶夫人

至十年四月八日
右脇誕生
後入雪山、修行六年、道成類佛陀、
衆號末牟尼、至匡王四年、解化太上
昇賈奕天、爲善惠仙人
 最後の一段が現行本に見えないのが気になるが、実際の画面との関係から考えるならむしろ不要であり、画中にはめ込むという制限の上から省略したものと思われる。それ以外はほぼ一致するが、これも画面を考慮に入れると、あるいは前半部はもう少し長文であった可能性もあるように思う。なおこの部分については『猶龍伝』に同文を見出すことはできず、『混元聖紀』とも一致せず、なににもとづいているか未詳である。あるいは先にも述べたように化胡経の影響下に作成されたものとも考えられる。
 次に画面の分析にはいるが、一見して明らかなように先ほどの第十八化に比して画面から得られる情報量ははるかに少ない。その原因については後に述べることとする。
 画面中央上よりの部分には、円形の中に象に乗った人物が画かれているが、これが解説文中にある「乘月精、騎白象」であろう。「月精」と表現されている点、第十八化の「日精」を意識しての表現であろう。この「月精」という表現は『混元聖記』などにも見られないものであるが、前に引いた『老子西昇化胡経』の中には次のように見える。(注三十
 
  我令尹喜、乘彼月精、降中天竺國、入乎白淨夫人口中、託■(まだれに陰)而生。
 
 句づくりもまったく違い、なによりこれは尹喜作仏説であるが、「乘月精」という他書に見えない表現が共通することを考えると、やはり『八十一化図説』の作成の際には、この種の化胡経の類からの影響が強くあったように思われる。
 この月精から何本かの線が蛇行しながら画面2に画かれた女性の右腋へとのびている。この女性が摩耶夫人であるが、その右腋からはひとりの子供が誕生している。これが釈迦に転生した老子の姿である。
 画面9にはもうひとり転生した老子が、湯浴みした姿で描かれている。また天から水を吐きかけているのは、第十八化の場合と同様龍ではあるのだが、その数は九匹ではなく、わずか五匹に過ぎない。これなども明らかに第十八化の図像を意識した画きわけであろう。
 この湯浴みする釈尊(老子)は、右手をあげて天を指しているような姿をしているが、はたしてなにを表しているのか、先ほどの摩耶夫人の右腋から生まれたばかりのすがたをみてもやはり同様に右手を差し上げたような恰好をしている。これは第十八化にあった「左手指天、右手指地」を意識した図像表現であるが、本来仏伝にあった「左手指天、右手指地」を老子誕生の場面で画いてしまったため、本来の釈迦誕生の場面には違った表現を要求されることとなる。そこで恐らく仏伝に見えるもうひとつの手の表現を用いることにしたのではないかと考えられる。たとえばのちに引く『修行本起経』のなかには、「擧手而言、天上天下、唯我爲尊、」という表現が見えるし、『太子瑞應本起経』にははっきりと「擧右手住而言、天上天下、唯我爲尊」と記されている。(注三十一
 このように第四十五化では、わずか二場面に転生した姿が見られるだけである。そもそも先の第十八化に画かれていた逸話の多くは仏伝から盗用というべきものであり、本来なら釈迦生誕の場面にこそ画かれるべきものである。そこで比較の意味からも釈迦誕生の場面を仏伝によって簡単に見てみる必要があろう。
 
注釈
  注三十、 注二十九に同じ
  注三十一、竺大力・康孟詳共訳『修行本起経』巻上菩薩降身品第二(大三、四六三下)、支謙訳『仏説太子瑞応本起経』巻上(大三、四七三下)
 
 
 第四節 仏伝との比較
 
 第十八化の老子誕生の場面に画かれていたものをもう一度整理してあげると、およそ以下のようになる。
  一、感夢譚・日精
  二、八十一年懐胎説
  三、剖腋誕生
  四、九歩・蓮華
  五、四霊翊衞
  六、九龍吐水
  七、指天独白
 これらは、先にも述べたように仏伝からの影響により、老子神格化の過程で形成されたものである。釈迦生誕の場面を記した仏伝には各種のものがあるが、その中から代表的な本起経のいくつかを取りあげて検討を加えたい。 
  『修行本起經』卷上 菩薩降身品第二
 於是能仁菩薩、化乘白象、來就母胎、用四月八日、夫人沐浴、……夢見空中有乘白象、光明悉照天下、……十月已滿、太子身成、到四月七日、夫人出遊、……夫人攀樹枝、便從右脇生墮地、行七歩、擧手而言、天上天下、唯我爲尊、……
注三十二
 「夫人攀樹枝、便從右脇生堕地、行七歩……」などという表現は、第十八化の場面と単に構想が一致するばかりではなく、その表現までも大変似通っている。この剖腋誕生説が相当初期の段階から老子伝説化に影響を与えていたことが知られる。竺大力らによる『修行本起経』の訳出は建安年間のことと考えられているので、魏晋以降中華の人々の広く知るところとなっており、やがてこれが老子伝に取り込まれ、史記正義に引かれる「玄妙玉女内篇」などの聖母伝説をも生み出すようになっていったものと思われる。
 また「日精」という語句の発想も、次の用例を見ると仏典からの影響であったことが推測される。
  『太子瑞應本起經』卷上
 菩薩初下、化乘白象、冠日之堰A因母晝寢、而示夢焉、從右脇入、……到四月八日夜明星出時、化從右脇生墮地、即行七歩、(注三十三)
 
  『佛本行經』卷一  降胎品第三
 菩薩乘象王、如日照白雲、諸天鼓樂舞、普雨雜色花、日精之明珠、光照耀王宮、……
注三十四

 この「日堰vを老子生誕の場面で使用し、代わって釈迦に対しては「月精」の語を使うことによって、老子の優位性を際だたせる効果をねらったのであろう。
 第十八化の場面に画かれた五、四霊翊衞・六、九龍吐水に関してもその先例が仏典に見られる。

     『普曜經』卷八 化舎利弗目連品第二十七
  生行七歩、天地大動、……釋梵四天王、咸來啓受、九龍浴身…… (注三十五

 「九龍吐水」はもとより、ここに見える「釋梵四天王、咸來啓受」などが「四霊」発想のきっかけであろう。
次にあげる二例は、『八十一化図説』が作成された百年ほどのちの仏教側の著作である。
 『佛祖歴代通載』卷第三 甲寅二月八日
 世尊生于迦毘羅衞國藍毘尼園沙羅叉樹下、從母摩耶夫人右脇而出……生時九龍吐水、 金盤沐已、周行七歩、自言、吾受最後生身、天上天下、唯吾獨尊、 (注三十六
 
  『折疑論』卷第一 聖生第二
 駕日輪香象、託陰王宮、以大夫人摩耶爲母、以周昭王甲寅二十四年四月八日、毘藍園中、右脇而生、於時地搖六震、天雨四華、~捧金盤、 龍吐香露、即能縱行七歩、目顧四方、一手指天、一手指地、曰天上天下、唯吾獨尊、…… (注三十七
 このように第十八化に画かれた七つの場面のうち八十一年懐胎説を除くすべては仏伝の剽窃ともいうべきものなのである。こうした個々の例ばかりでなく、たとえば『猶龍伝』にあった「至降生凡有二十一事」という生誕の際の様々な奇瑞を数え上げるという発想そのものが、仏伝の「天降瑞応、三十有二」(修行本起経)「天降瑞應、有三十二種」(太子瑞応本起経)などにもとづいたものなのである。 こうして多くの逸話を仏伝から剽窃して、老子誕生の場面に画いてしまった後では、釈迦への転生の場面で画くものが極端に減るのは当然のことである。そしてこれは結果的にそうなったわけではなく、もとより意識的に行われたものであることは明らかで、当時道教批判の急先鋒であった祥邁の言をかりるなら「採釋瑞而爲老瑞、……改迦祥而作老(釋瑞を採りて老瑞と爲し、……迦祥を改めて老と作す)」(注三十八)、「採他釋瑞而爲老奇、將此薫蕕、亂彼蘭■(草かんむりに止)【他の釋瑞を採りて老奇と爲し、此の薫蕕を將て、彼の蘭■(草かんむりに止)を亂す】」(注三十九)ということであり、「倚竊佛教、晁荘ス端、欲高釋氏之前(佛教を倚竊し、多端[瑞?]を増闡し、釋氏之前に高からんと欲す)」(注四十)ということである。
 八十一化図説に画かれ、表現された言説は、単なる道教の宣揚ではなく、化胡説にもとづいて仏教を貶め、多くを仏教から剽窃するようなものであった。こうした言説は、仏教側にとっては当然容認できるものではなく、特に八十一化図説ではそれが図像表現という手法を用いてなされたのであるから、ことさら看過できないものであったと推察される。
 
注釈
  注三十二、竺大力・康孟詳共訳『修行本起経』巻上(大三、四六三中・下)
  注三十三、支謙訳『太子瑞応本起経』巻上(大三、四七三中・下)
  注三十四、釈宝雲訳『仏本行経』巻一(大四、五七下)
  注三十五、竺法護訳『普曜経』巻八(大三、五三四上)
  注三十六、念常著『仏祖歴代通載』巻第三 (大四十九、四九五上)至正元(一三四一)年成立
  注三十七、子成著、師子比丘注『折疑論』巻第一(大五十二、七九六上)至正十一(一三五一)年成立
  注三十八、『至元弁偽録』巻一(大五十二、七五二下)
  注三十九、『至元弁偽録』巻二(大五十二、七五九上)
  注四十、 『至元弁偽録』巻三(大五十二、七六七下)

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