大谷大学所蔵「老子八十一化図説」について【3P】
  第二節 第十八化の図像分析
 この場面を一瞥して気づくことは、その生誕の際におこった様々の奇瑞や逸話が、一つの画面に同時に画かれているという事である。こうした「異時同図法」と呼ばれる技法は、洋の東西を問わず、古典絵画にはよく使用される技法の一つである。そこで解読・分析を行う際には、全体を一つの場面として分析するのではなく、画面をいくつかに分割し、その中から一つ一つの図像を取り出して検討を行う必要がある。以下論述の便も考え、この第十八化の場面を縦横三コマづつ、全体で九コマに区切って解読を進めることにする。(一図参照)
7 4 1
8 5 2
9 6 3

    一図
 時系列に沿って考えると、まず最初に注目すべき場面は、中央5の付近であろう。この場面、建物の中に横たわる女性は、聖母玄妙玉女であろう。解説文中にもあった、昼寝をして日精が口中に入るのを夢に見たという、いわゆる感夢譚の場面を画いたものである。左上の日精を表す円中に画かれているのが「一人目」の太上老君であるが、この老君が結跏趺坐の形を取っているのも興味深いことである。  
 しかしこの場面でより目を引くのは、単に日精が画かれるのではなく、日精の両脇から二人の人物が手を出し、支えるようにしているという画き方がされているという点である。これは解説文中には見えないことであるが、『猶龍伝』所引の「玄中記」の中に見える「晝寢夢天開數丈、衆仙捧日、出良久見」という一文に見える「衆仙」を画きだしたものと考えられる。さらにそれに続く「日漸小、從天而墜」というのを表したのが、画面7の左上から右下に引かれた二本の直線であろう。
 この「日精」という表現について少し記憶しておく必要がある。なぜ「日精」かという事については、『猶龍伝』の別の個所に「此れ陽徳を明らかにするなり」という理由づけが見られる。(注二十五
 かくして聖母の体内にあること八十一年、いよいよ出産ということになるのだが、その場面が、画面左下9の位置に画かれている。左端に李樹が画かれ、その脇に四人の女性が画かれているが、中央のやや大きめに画かれた女性が聖母である。解説文にもとづくなら「攀奢(李)樹」という場面である。しかしこの場面も単に「攀李樹」という図像表現ではない。ここでも周りにいる侍女の存在を見逃してはならないだろう。至元B及び『猶龍伝』ではこの場面を次のように記す。
 
   〔至元B〕
  祥雲■(まだれに陰)庭、四靈翊衛、玉女捧接、聖母攀枝……
   〔猶龍傳〕
  第八……祥雲■(まだれに陰)庭、四靈翊衛、玉女捧接聖母因攀李枝……

 
 図中の女性たちの有様は、まさにここにいう聖母を支える「玉女」の姿である。また画面中央を横切るように画かれた雲も「祥雲■(まだれに陰)庭」という表現にぴったりである。さらに画面8の雲の上には、いかめしい姿をした四人の人物が画かれている。これも解説文には触れられることのない場面ではある。しかし至元B及び『猶龍伝』には「玉女捧接」のすぐ直前に、この四人についてとおぼしき「四靈翊衛」という記事が見られる。
 ここに言う「四霊」が、図中の雲に乗った四人の人物を表すに違いない。この四霊は、あるいは『文選』所収の張衡「東京賦」に見える「四靈懋而允懷」の四霊を言うのかもしれない。李善は『河圖』を引いて「四霊、蒼帝神名霊異仰、赤帝神名赤■(火へんに票)怒、黄帝神名含樞紐、白帝對神名白招拒、黒帝神名協光紀、今五云四霊、謂除赤餘有四」と注する。赤帝を除いた蒼帝・黄帝・白帝・黒帝の四人を図像化したものだということになろう。
 あるいは、『天皇至道太清玉册』によると、青龍・白虎などのいわゆる四神の人格神化したものを四霊と称することもあるらしい。(注二十六)『華夏諸神』によると、四神は人格神化する過程で、いずれも護衛神の性格を有するようになったという。(注二十七)実際『八十一化図説』中に画かれた姿を見ても、いずれも武神らしき形に描かれている。また、老子との関係で言えば、古く『抱朴子』に四神が老子に従うとの記事が見えることからも、後者である可能性が高い。(注二十八
 画面9に画かれた聖母の図に話を戻そう。この場面で肝腎なのは、言うまでもなく「剖左腋而生」という図像表現である。この図像中では正しく老子は聖母の左袖を通って取り上げられている。小さくて少しわかりずらいが、この誕生した老子の姿をよく見ると、ひげを蓄えている点にも気づく。老子伝説化の過程で釈尊に倣って創造された、いわゆる三十二相八十一好と呼ばれる勝相まではさすがに画ききれなかったと思われるが、老人の相であるひげを蓄えた顔貌では画いている。これは、至元Aにも「八十一年、生而皓首、曰老子」とあるような、八十一年懐胎説を表したものであろう。
 次に画面3には「三人目」の老子が産湯を浴びる姿で描かれている。この老子もやはり白首ではないが、ひげを蓄えた老人の姿で画かれている。そして産湯を浴びせかけるのは、画面2に画かれた九匹の龍であるのだが、これも至元A・B及び『猶龍傳』にある「九龍吐水」の図像化であろう。
 そして画面3の湯浴みしている場所から転々と六つの蓮花(これが蓮華であることは、後方の池中に描かれた蓮華と同手法によるものであることからも明らかであろう)が画き込まれている。六つしかないのが少し引っかかるが、これは至元Bなどにある「九歩生蓮華」であろう。
 その先に「四人目」の老子がいる。この老子の姿が問題である。左手は上を、右手は下を指している。これはまさに「左手指天、右手指地」の形象であり、おそらく「天上天下、唯道独尊」と口にしていることであろう。これはけして「指李曰此吾姓也」(至元A・猶龍伝)の図像化ではない。
 この部分至元Aには、他書と違う「我當闡揚無上道法、普度一切」の句が見える。これは『混元聖紀』にも見えない文句であるが、『老子西昇化胡経』の中に次のように見える。 (読点は筆者による)(注二十九
 
      老子西昇化胡経序説第一
   是時太上老君、以殷王湯(*1)甲庚申之歳、建□(*2)之月、從常道境、駕三氣雲、乘于曰(*3)精、垂□(*4)九耀、入於玉女玄妙口中、
   寄胎爲人、庚辰□(*5)二月十五日、誕生于毫(*6)、九龍吐水、濯洗其形、化爲九井、爾時老君、 鬚髪皓白、登即能行、歩生蓮花、乃至
   于九、左手指天、右手指地、而告人曰、天上天下、唯我獨尊、我當開揚無上道法、普度一切、動植衆生……
     *1 伯・斯ともに「湯」。  *2 伯は「建□之月」。斯は「建午之月」。 *3 伯・斯ともに「日」。*4 伯は「垂□九耀」。斯は「垂芒九耀」。
     *5 伯は「庚辰□」。斯は「庚辰之歳」。  *6 伯・斯ともに「亳」。

 
 この『老子西昇化胡経』の一文は、「庚申歳」のあとに「建午之月」という一句が入っている点、「入於玉女玄妙口中」という句づくり、そして末尾の「左手指天」以下は「唯我独尊」「我」が「道」になり、「闡揚」が「開揚」になっている以外はほぼ至元Aに一致している。このことから考えて、至元Aには直接か否かは別にして、『老子西昇化胡経』が影響を与えていることが考えられる。
 以上のような図像分析の結果、次のようないくつかの点を指摘できであろう。第一に、現行本第十八化の各場面は、『猶龍伝』に記されたところと一致する。このことは作画者が『猶龍伝』に近いものを参照していたであろうと推測させる。第二には、その一方で『至元弁偽録』に引用されたBの解説文とも見事に一致するということである。ということは『八十一化図説』の原本の図像も現行本とほぼ同様のものであったろう事が窺える。そうなると、現行本作画者がなんらかのかたちで原本を目にしていた可能性も否定できないことになる。もちろん原本も現行本もともに『猶龍伝』を参照していたため偶然一致しているに過ぎないと考えることもできる。いずれが妥当であるかは、第十八化以外の他の場面における『至元弁偽録』所引の解説文との一致具合を調査することによって明らかにできるかもしれないが、今回は一つの可能性として提示するにとどめる。
 第三に、仮に原本の図像が現行本とそう違わないものであったとしたら、至元Aの解説文はいささか簡略すぎるように思われ、あるいは前にも述べたように実際の解説文を節略したものに過ぎないのかもしれない。
 第四に、『老子西昇化胡経』との関係が窺われる点である。最後に示した例などからすると、これまで考えられていたように単純に『猶龍伝』だけをもとにしているとは考えられず、化胡経とのより強い関係を想定する必要があろう。
 第五に、これら図像のもつ意味について述べなければならない。これらの図像によって表現された逸話の多くは、老子の神格化・伝説化の流れの中で生み出されたものであり、とくに化胡説と重要な関わりを持つことは言うまでもない。そしてそれはまた、この『八十一化図説』が仏教者側から強い反発を招いたという問題にもつながる。こうした問題を論ずるためには、この第十八化とは別に、もうひとつ第四十五化の分析は欠かすことができないであろう。
 
注釈
  注二十五、『猶龍伝』卷三降生年代
          第一……化日精、爲五色之珠、此明陽徳也
  注二十六、『天皇至道太清玉冊』卷八 數目記事章
         四靈名 四靈帝君名諱、青龍帝君孟章、白虎帝君監兵、朱雀帝君靈光、玄武帝君執明
  注二十七、『華夏諸神』道教巻 馬書田著 雲龍出版 一九九三
  注二十八、『抱朴子』内篇・雜應
          老君眞形者、……從黄童百二十人、左有十二青龍、右有二十六白虎、前有二十四朱雀、後有七十二元武……
  注二十九、ここに掲げたものは大正蔵巻五十四に載せる翻刻であるが、字句の一部に翻刻の際の誤りと思われるものがあるので、『敦煌古籍敍録新編』十三冊に載せる写真版によって校勘を試みた。なお該当の残巻にはペリオ二〇〇七とスタイン一八五七の二種あり、それぞれ「伯」「斯」と記した。

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