大谷大学所蔵「老子八十一化図説」について【2P】
  第二章
第一節  第十八化の解説文分析
 この第十八化は、「誕聖日」と題されているように、太上老君が老子として中華の地に生を受けた場面を画いたものである。画面上部にはこの場面を解説した一文が付されているので、まずこの解説文から分析を行うこととする。(原文の改行は原図のままとし、訓読文は内容により段落をつけ、句読を付した。)


   第十八化  誕聖日
  太上老君以殷十八
  王陽甲庚申歳真妙
  玉女晝寝夢呑日精
  化五色流珠因而有
  孕八十一年至二十二
  王武丁庚辰二月
  十五日聖母因攀奢
  樹剖左腋而生又玄
  中記所載李靈
  飛得脩真之道
  不仕其妻尹氏
  晝寢夢天開數
  丈見太上乘
  日精駕九龍
  而下化五
  色流珠呑
  之有孕
   第十八化  誕聖日
  太上老君、殷の十八王の陽甲の庚申の歳 を以て、真妙玉女晝寝て、日精の五色の流珠に化すを呑むを夢み、因りて孕む有り。
  八十一年にして二十二王武丁の庚辰二月十五日に至りて、聖母因りて奢樹に攀じりて左腋を剖きて生まる。又玄中記所載す。李靈飛脩真の道を得て仕えず。其の妻尹氏晝寢て、天開くこと數丈、太上日精に乘り、九龍に駕して下り、 五色の流珠に化して之れを呑むを夢み、孕む有り。
 この一文は、道蔵所收の『猶龍伝』やそのもととなった『道徳眞經廣聖義』に、ほぼ同文が見え、『混元聖紀』などの老子伝とは一致しない。(注十五) 出だしの部分、『猶龍伝』巻三は次のように記す。


    『猶龍傳』巻之三
  降生年代  以商(*)第十八王陽甲十七年(*)庚申之(*)歳、託孕於玄妙玉女……



 *印を付した部分に異同が見られるが、いずれも問題になるようには思われない。ただ『八十一化図説』における「殷」の前の「以」の字は本来不用であると思われるが、これは『猶龍伝』にあった「託孕云々」という一文を削ってしまった結果起こった現象である。また「以」を受けるべき動詞「託孕」を削ったため、次の「真妙玉女云々」という一文ともうまくつながらなくなっている。
 これ以下に続く「真妙玉女云々」という一文は、『猶龍伝』では誕生時の奇瑞「二十一事」の中に出現する。


  託孕於玄妙玉女、至降生凡有二十一事……第四玄妙玉女、以晝寝夢呑五色流珠、因而有娠


  『猶龍伝』の「呑五色流珠」の部分が、『八十一化図説』では「呑日精化五色流珠」と「日精化」の三字が追加されているが、これは少し前の「第一……化日精爲五色之珠」の部分を挿入したものと考えられる。
 次の誕聖日に関する部分は「第五・第六・第八」に見られる。  


   第五……八十一年不覺爲久、當商二十二王武丁九年庚辰歳降生也、第六……剖左腋而生也……第八……聖母因攀李枝忽爾降生矣


 『八十一化図説』に「奢樹」とあるのは「李樹」の誤写であろう。また「二月十五日」という日付が追加されている点が大きな違いであるが、これも「第十六」の部分にある「第十六、老君降生年代即商武丁九年庚辰歳二月十五日是也」の一文によって補ったと考えられよう。  
 一方『混元聖紀』ではこの部分を次のように記す。


  八十一年不覺其久、至商二十二王武丁之九年庚辰歳二月建寅十五日卯時、聖母因攀李枝、忽從左腋降生


 「商」の前が「至」になっている点や簡潔にまとまっている点では、『猶龍傳』より近いような気もするが、「剖左腋而生」が「從左腋降生」になっているなどの点から、やはり『猶龍伝』の方がより近いように思われる。
 最後に『玄中記』からの引用部分であるが、これも『猶龍傳』の巻三明宗緒の中に見える一文と一致する。


  聖母者、按玄中記云、李靈飛當商之時、父子相承、得脩生之道、……深隱(*)不仕、内修大道、以天水尹氏之女爲妻、……其妻嘗因晝寢、夢天開數丈、衆仙奉日出良久見、日漸小、從天而墜……


 『八十一化図説』では、このあと感夢譚が続くが、これは『玄中記』からの引用ではなく、実は『玄妙玉女元君内伝』という書物からの引用である。『猶龍伝』では『玄中記』の引用の後、次のように続ける。


  玄妙玉女元君内傳云……玄妙晝寢、老君乃乘日精、駕九龍、化爲五色流珠、下入口中、託孕而生



 この『玄中記』『玄妙玉女元君内伝』二書からの引用は『道徳眞經廣聖義』にも同様に引用せられている。
 以上のように『八十一化図説』第十八化の解説文は、その全文が『猶龍伝』巻三の部分を下敷きに作文せられていると考えられる。その内容を整理しておくと、次のようになる。
  一、老子誕生の日時。
  二、感夢譚。
  三、李樹。
  四、左腋よりの誕生。
  五、別伝の記載。
 ここで注意しなければならないのは、この解説文は必ずしも画面全体を詳しく解説したものではなく、この解説文からだけでは作画者の意図したところを正確につかむことはできない。
 現行本の『八十一化図説』に付された解説文が随分と簡略化されたものであることは、すでに吉岡義豊、窪徳忠両氏によって明らかにされている。(注十六)両氏は『至元弁偽録』に引用せられた原本のものと思われる解説文と、現行本解説文との比較対照を行っており、それによるなら原本の解説文は本来図中に書き込まれたものではなく、むしろより長文のものであったらしく、その内容も現行本とは著しく違うものであったようである。(注十七)特に窪氏は「老子八十一化図私見」と題する論文で、この十八化の部分が『至元弁偽録』では第十化として引用せられていることを指摘し、現行本が原本の単なる抄本とは考えられない理由の一つとしている。(注十八
 しかし、これは『至元弁偽録』が第十八化の「八」の字を脱落させて引用しているためでないかと思われる。そもそも老子誕生の話が第十化に入るのは、前後の逸話から考えても無理がある。これは現行本がそうであるばかりではなく、『至元弁偽録』に引用されている第十化及び第十八化の前後から考えても同様である。参考までに現行本の第十及び十八化の前後の画題を一覧にしてあげてみよう。


   第七化  受玉図
   第八化  變眞文
   第九化  垂経教
   第十化  伝五公
   第十一化 賛元陽
   第十二化 置陶冶
   第十三化 教稼穡

      ……

      ……

   第十六化 爲帝師
   第十七化 授隠文
   第十八化 誕聖日
   第十九化 為柱史
   第二十化 棄周爵



 この順序は原本もほぼ同一であったことが、『至元弁偽録』に引用されている佚文からも窺える。言うまでもなく、一応すべて時系列に沿って並べられており、この順序からするなら老子生誕は第十九化の「為柱史」の前に入るべきである。第十七化以前はいわゆる老子の前世譚が並んでいることから、第十化に老子生誕が入るとは思われない。
 またこの「十八」という数字に注意せられたい。道教にあっては、あるいは老子の生涯をあえて「八十一化」にまとめた人間たちにとっては、老子生誕は「十八」化でなければならないはずである。第九化以前は前世、特に天上での老君、第十八化以前はこの地上での前世譚、第十八化よりあと第二十六化までは中国から天上への事跡、そして第二十七化において■(ケイ・よんかしらにがんだれに炎にりっとう)賓に入り、第四十五化で釋迦に転生するのである。ここには明らかに九の倍数に対する明確な意志がはたいていると考えられる。
  また『至元弁偽録』において、この「第十化云」という引用がなされている部分を詳細に見るなら、まず「第一化云」として引用文があり、「第二化」「第六化」「第十一化」「第十二化」「第十三化」とつづき、最後にこの「第十化」が引用されている。第一化から順に引用していながら、なぜ突然第十三化から第十化へ遡る必要があろう。ここは本来第十八化だったと考えるなら、ずっとすっきりしたものになるのではないだろうか。
 以上のような点から考えて、老子誕生譚が第十化であったはずがない。むしろ『至元弁偽録』のたった一個所の引用によって現行本第十八化の是非を云々するのは危険であろう。(注十九)加えて『至元弁偽録』に錯誤や誤記の多いことは窪氏自身の研究によって明らかにされているのである。(注二十
 では『至元弁偽録』に引かれた原本『八十一化図説』の解説文とはどのようなものであったのだろうか。『至元弁偽録』に引用されているものを次にあげる。(句点・改行は筆者)


      巻二 前後老君降生不同偽第十
   第十化云、老子以殷十八王陽甲庚寅歳建午月、入於玄妙玉女口中、八十一年、至武丁九年庚寅歳二月十五日、聖
  母剖左腋、攀李樹而生、生即行歩、歩生蓮華、九龍吐水、具七十二相八十一好、左手指天、右手指地曰、天上天下、
  唯道獨尊、我當闡揚無上道法、普度一切、又云、李靈飛得修生之道、眞妻天水尹氏、於視ス晝寝、見太上從天而下、
  爲玄珠、呑而有娠、八十一年生而皓首曰老子、生李樹下、指李爲姓。


       巻三
   少林(福裕)重奏曰、……圖云、老君以殷十八王陽甲庚申歳、眞妙玉女晝寢、夢日精駕九龍而下、化五色流珠、
  呑之而孕、八十一年、至二十一王武丁九年庚辰二月十五日、其母攀李樹、剖左腋而生、九歩生蓮、四方乘足、日
  童揚輝、月妃散華、七元流景、祥雲■(广に陰)庭、四靈翊衛、玉女捧接、其母攀枝、萬鶴翔空、九龍吐水、七
  十二相八十一好、指天指地、唯道獨尊、及長爲文王守蔵吏、至成康爲柱下史、而棄周爵。不知此語何從所出也、……


 後者の引用には「図云」としか記されていないが、その内容から第十八化を指していることは間違いないと思われる。(注二十一)同じ第十八化でありながらこれほど違うのである(以下便宜上、前者を至元A、後者を至元Bと呼ぶ)。この例を見ても『至元弁偽録』に引用されている解説文がどれほど正確に原本の姿を伝えているかは注意が必要であろう。窪氏も、その内容の齟齬などから『至元弁偽録』は一人の手によってなったものではなく、各巻の間の記述にも随分と差異があると述べておられる。(注二十二)この第十八化の解説文に関しても、どちらの引用をより原本に近いものか判断するにはよほど慎重でなければならないであろう。
 現行本との関係で見れば、現行本の前半部は、長短を別にして、至元Bの引用文に近い。例えば、現行本の「陽甲庚申歳」が、至元Bと一致するにも関わらず、至元Aでは「陽甲庚寅歳」となっている。(注二十三)現行本の「眞妙玉女」という表現も、至元Aでは「玄妙玉女」となっている。ちなみに『猶龍伝』も「玄妙玉女」となっており、「玄」であるのが一般的であるが、第十八化と至元Bでは「眞」になっており、単なる偶然の一致とは考えられず、両者には繋がりがあることを窺わせる。この点から考えると、現行本の解説文が単純に『猶龍伝』をもとにして作文されたとは言えないことになる。
 さらに以下につづく部分も、現行本の前半部は明らかに至元Bと一致するところが多い。(詳細は対照表を参照。)
 
現八十一化図説 『至元弁偽録』後者(B) 『猶龍傳』 『至元弁偽録』前者 (A)
太上老君
以殷十八王陽甲
庚申歳
真妙玉女
晝寝夢呑日精


化五色流珠
因而有孕
八十一年
至二十二王武丁庚辰

二月十五日
聖母因攀奢樹
剖左腋而生














又玄中記所載

李靈飛得脩真之道
不仕
其妻尹氏晝寢

夢天開數丈








見太上乘日精
駕九龍而下
化五色流珠
呑之有孕


老君
以殷十八王陽甲
庚申歳
眞妙玉女
晝寢、夢日精駕九龍而下


化五色流珠
呑之而孕
八十一年
至二十一王武丁九年庚辰

二月十五日
其母攀李樹
剖左腋而生
九歩生蓮華
四方乘足
日童揚輝
月妃散華
七元流景
祥雲■(广に陰)庭
四靈翊衛
玉女捧接
其母攀枝
萬鶴翔空
九龍吐水
七十二相八十一好
指天指地
唯道獨尊


















老君……
以商十八王陽甲
 十七年庚申之歳
 託孕於玄妙玉女……
第四玄妙玉女、以晝寝夢呑
 (第一……化日精爲五色之珠)
 (第二駕九龍之車)
五色流珠
因而有娠
第五……八十一年不覺爲久
 當商二十二王武丁九年庚辰歳降生也
第十六老君降生年代、即商武丁九年庚辰歳
 二月十五日
第八……聖母因攀李枝
第六……剖左腋而生也
第七……登行九歩、歩生蓮華

第八降生日童揚輝
月妃散華
七元流景
祥雲■(广に陰)庭
四靈翊衛
玉女捧接
 聖母因攀李枝、忽爾降生矣
第九降生萬鶴翔空
 九龍吐水以浴
第十八……七十二相八十一好
第十……左手指天、右手指地
 曰天上天下、唯道爲尊
 世間之苦、何足樂聞
聖母按玄中記云
李靈飛當商之時、父子相承、得脩生之道
 ……深隱不仕、
 ……以天水尹氏之女爲妻、居於瀬郷、其
 妻嘗因晝寢
夢天開數丈
衆仙奉日出良久見、日漸小、從天而墜化爲
 五色之珠、大如彈丸夢中得而呑之、因而
 有孕、八十一年、……
玄妙玉女元君内傳云
……爲天水尹氏之女、嫁李靈飛爲妻
玄妙晝寢、老君乃乘日精
駕九龍
化五色流珠
下入口中、託孕而生
 (第二十一……八十一年誕聖之辰、生而
  白首、聖母爲之立號)
既生乃指李曰、此吾姓也
老子
以殷十八王陽甲
庚寅歳建午月
入於玄妙玉女口中





八十一年
至武丁九年庚寅歳

二月十五日

聖母剖左腋、攀李樹而生
生即行歩、歩生蓮華









九龍吐水
具七十二相八十一好
左手指天、右手指地
曰天上天下、唯道獨尊
我當闡揚無上道法、普度一切又云
李靈飛得修生之道


眞妻天水尹氏、於視ス晝寝










見太上從天而下


爲玄珠
呑而有娠
八十一年生而皓首曰老子

生李樹下、指李爲姓。
現行本解説文 『至元弁偽録』
太上老君、將欲再弘浮屠教法
以周莊王九年
乃於梵天
命煩陀王
乘月精
騎白象
託■(广に陰) 天竺國摩耶夫人
爲淨梵王之子
至十年甲午四月初八日
生於右脇
老君、將欲再整釋教
以周莊王九年
乃於梵天
命煩陀王
乘月精

託■(广に陰)天竺摩耶夫人胎

至十年四月八日
右脇誕生
後入雪山、修行六年、道成類佛陀、
衆號末牟尼、至匡王四年、解化太上
昇賈奕天、爲善惠仙人


 一方、現行本の後半には「玄中記云々」という一文があり、これは至元Bにはなく、むしろ至元Aに「又云」として同じ「玄中記」からのものと思われる一文が存在する。(注二十四)ただその内容は差異がはなはだしい。先にも指摘したように現行本の方は『猶龍伝』からの節録と考えられるが、至元Aの方はなんとも判断しがたいような句づくりである。
 こうした点を踏まえて推測するに、原本『八十一化図説』の解説文は至元Bの前半部と至元Aの後半部を接続したような形になっており、Aの作者は前半だけを節録し、Bの作者は後半を省略して引用したものと考えられる。さらに現行本が作成せられた際には、原本を直接参照したか、『猶龍伝』のみによったかは別として、図像中に解説文を組み込んだため、前半部を大幅に削除することになったのではないだろうか。
 このようにいくつかの問題をはらむ解説文ではあるが、いずれにしろ現行本の解説文だけでは、画面全体の意図するところを理解するには不十分である。そこで『至元弁偽録』に引かれた原本のものと思われる解説文を参考にしつつ、画面に画かれた図像の分析を次に試みることにしたい。そうすることによって現行本図像と原本解説文の間になんらかの関係が見いだせるかもしれない。

 【注釈】
  注十五、『猶龍伝』と『道徳真經廣聖義』の関係については、『猶龍伝』が『道徳真經廣聖義』に基づいたのではなく、両書がともに先行する唐の尹
       文操の『太上老君玄元皇帝聖紀』に依っているため、結果的に一致する部分が多いのだとする説がある。ただし尹文操の書は亡佚したた
       め現在見ることはできない。楠山春樹著『老子傳説の研究』創文社一九九二年 「後編・序章 展望と論點」参照。
  注十六、この問題については、注三・注四の窪・吉岡両氏の論考に詳しい。
  注十七、筆者もより詳しい対照表を作成して付したので参照されたい。
  注十八、窪徳忠「老子八十一化図私見」龍谷史壇五六、五七 一九九六
       また注二@窪氏前掲書五十七頁においても同様の指摘をおこなって次のように記す。  
 
         原八十一化図には見當らない第十化を現八十一化図説が収めているところと考えあわせてみると、いかにも腑におちない。  
 
       亡佚した原本に「見當らない第十化」というのがなにを意味するのか、いささか疑念はあるが、『至元弁偽録』に引用されている原本第十化が、現行本では第十八化となっていることを意味していると理解しておく。
  注十九、『至元弁偽録』中には、この「第十八化誕聖日」に該当する引用が二個所ある。
       ひとつは『至元弁偽録』巻二(大正蔵五十二・七五八下)、
       もうひとつは同巻三(大正蔵五十二・七六九上)であるが、後者は「図云」としか記されていない。
  注二十、『至元弁偽録』資料的問題については、窪氏の次の論文に詳しい。
       「元代佛道論争研究序説」『結城教授頌寿記念佛教思想史論集』大蔵出版 一九六四年 所収。のち『モンゴル朝の道教と仏教』平河出版一九九二に再録。
  注二十一、後者の文末の「及長爲文王守蔵吏、至成康爲柱下史、而棄周爵。不知此語何從所出、……」という部分については、第十八化ではなく、それに続く第十九化「爲柱史」第二十化「棄周爵」を指すものと考える。


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