大谷大学所蔵「老子八十一化図説」について【1P】

  はじめに
 大谷大学図書館には『道徳経』と題する一本が所蔵されている。この『道徳経』は他書と異なって、さらに『太上繪圖八十一化河上公註』という小字二行による副題が記されている。一葉ごとに表面にはこの「八十一化図説」が、裏面には「河上公注道徳経」が配されている。一般に「八十一化図説」と呼ばれる図絵は、化胡説を中心に様々な伝説にもとづいた老子の生涯を八十一の場面に分けて表したものである。(注一)
 この図絵は、元の憲宗期に全真教の道士によって作成せられたもので、元代仏道論争のきっかけともなったものである。(注二)この書成立の中心にいたのは、全眞教の道士李志常であり、かれの命を受けた令狐璋と史志経の二人がその実作者である。この書を広く世間に流布させようとした李志常は、朝廷の近臣へ広めることができれば、世間への流布は容易になるだろうと考えたのだが、これが仏教者側の知るところとなり、かえって厳しい反発を呼び起こすこととなった。道教側が帝前での何度かの論争にも敗れた結果、所持はもとより、版木もすべて焼却されることになり、結局流布されることはなかったと言われる。
 この元代に焚毀を被ったはずの「八十一化図説」が、現代でもなお僅かではあるが行われている。現在報告がなされているその数種の版本について以下に簡単に整理するとともに、あわせて大谷大学蔵本についても紹介することとしたい。
 
注釈
  注一、この書には様々な呼称があるが、筆者は以下「八十一化図説」と呼ぶことにする。  
  注二、この書の成立やその後の焚毀に到るまでの経緯については「至元弁偽録」(大正蔵巻五十二)に詳しい。


  第一章

   第一節  概説

 大谷大学蔵の『八十一化図説』について述べる前に、現在知られる他の版本ついて簡単に紹介し、その位置づけを明確にしておきたい。
 現在流布しているもののうち最も古い形態を保っている思われるのは、窪徳忠氏が紹介されている大淵忍爾氏蔵本(以下、大淵本と略称)である。大淵本は「太上老子道徳眞經」という題簽を持ち、上下二段の構成よりなる。うち上段が「八十一化図説」、下段が道徳経である。また各図の解説文は図と図の間に挟まれているという事である。ただし下帖のみであるため、刊行時期など詳細は不明であるが、窪氏は明末頃の版ではないかとしておられる。(注三
 二つめは吉岡義豊氏蔵の杭省三元坊同善齋經房版(以下、杭州本と略称)である。(注四)この杭州本は二冊本で、一冊は「河上公章句 道徳経解」と題し、もう一冊は「太上八十一化圖説」と題している。
 また解説文は各図の欄外上段に付されている。次に述べる太清宮本と構図などはほとんど同一であるが、吉岡氏は杭州本の図のほうが「古雅な趣を存している」といい、窪氏は太清宮本が杭州本の字句を正しているところがあることから杭州本の方が成立が先であろうとしておられる。
 三種めは、福井康順氏蔵の奉天太清宮蔵版である。(以下、太清宮本と略称)(注五)大谷大学に所蔵されるものもこの太清宮本であるので、詳細は後述する。
 この現行本「八十一化図説」三本と、元代に作成せられた原本との関係がいかなるものであるかについて、福井氏は現行本を原本の抄本であると考え、吉岡氏は両者の間に陳致虚の修治本を想定している。これらの説に対して、窪氏は各本の序文や巻頭に掲げられている真人図の分析などから詳細なる反論を行い、次のような結論を導いておられる。(注六
   全眞教の南北二宗を會通して一に歸させ、かつ正一ヘや淨明道のヘ法まで會得していたのは、趙原陽であ った。そうして、その法孫は、劉淵然、邵以正、杜普毅(ヘ)、李得晟と、四人までも眞人圖のなかに收めら れている。從って、この系統に屬する人が眞人圖の作者としての資格をそなえているとみても、おそらく大 過ないであろう。邵元節が致一眞人の號を賜わったのは、嘉靖三年(一五二四)のことである。
 そこで、同年 以後に、邵元節とも關係のあった趙原陽の法孫のだれかが――それはおそらく李得晟の直弟子ではないかと 思われるが――、今日傳えられているような眞人圖をつくって、序文類とともにかかげ、八十一化圖の卷頭 を飾ったのではないかというのが、私の現在の臆測である。
 ここに見える現行の真人図の作者が「李得晟の直弟子ではないか」という推測は実に卓見である。実はもう一種の『八十一化図説』の存在が、中国より報告されているのである。『世界宗教』誌上において路工氏が紹介されている明の嘉靖十一年(一五三二)刊の遼寧閭山刊本(以下、遼寧本と略称)がそれである。(注七)路工氏の論文には三葉の図版が付されているが、それらは大谷大学蔵の太清宮本と同一であり、その八十一化全体の構成も、また画面中に解説文が挿入されているという体裁も同じである。その版の大きさ、所蔵者、序文の有無など、詳細が記されていない簡単な報告であるため要領を得ない点も多いが、その中に重要な一節があるので紹介することにしたい。(原文は簡体字の横組みであるため、文字と一部の記号などを改めて引用する。)
   
天妃宮主持李得晟、在《后序》中説、「太上旧章、上絵化形図象、下記経訓、総若干章、茲以命工繍梓、一 而新之、豈直為敷教振宗之所謀哉」■(しんにょうに文)里所指的「旧章」、是指上図下文的老子「化形図」。此図編修人令狐璋、引経全解人史志経、是宋代刊本。元代至元十八年、元世祖下令焚毀道教書笈目録中、有此図。由于焚毀、所 以宋本久已失伝。此本《太上老君八十一化図説》、乃是依据在焚余后遼寧山天妃宮当時存留下来 的宋本模刻的、所以僅書絵図人劉徳璧、攬功成刻板人崔時貴。
 ここでいう令狐璋・史志経によって作成せられた「旧章」や老子「化形図」の「宋代刊本」なるものが、原本「八十一化図説」である。特に重要なのはここに引かれている李得晟の「後序」である。この序は、これまで日本で紹介された各種版本には見られないものである。それによると、本来の太上八十一化図説は「上図下文」になっていたというのである。(注八)そして元代の焚毀のあとも遼寧閭山の天妃宮には、その模刻が残っており、それをもとに劉徳璧に絵図を画かせ、崔時貴に刻させたものであるという。李得晟という後序の作者といい、嘉靖十一年(一五三二)という刊記といい、じつに窪氏の仮説によく符合する。
 ただそうなると大淵本や杭州本との関係はどうなるのか、たとえば先に「太清宮本より杭州本の方が古雅であり、杭州本の成立の方が先」であると紹介したが、杭州本を紹介した吉岡氏の論文に載せる第四十五化の場面と、路工氏の載せる遼寧本の第四十五化の場面とを、太清宮本のそれと比較すると、背景の建物や中央に建つ樹木の画き方などからも、また解説文が図中に書き込まれ含まれている点も含めて、太清宮本の方が遼寧本に一致するのである。となると、遼寧本や太清宮本とは別系統に属する版本――大淵本や杭州本――の存在を想定した方がよいことになる。
 いずれにしろ遼寧本の詳細な報告がまたれるところである。
 
注釈
  注三、大淵本については、次の論文による。
      @窪徳忠「老子八十一化図説についてーその資料問題を中心としてー」東洋文化研究所紀要五十八
      A窪徳忠「老子八十一化図説について―― ー陳致虚本の存在をめぐって――」。のち『モンゴル朝の道教と仏教』平河出版一九九二に再録。
  注四、杭州本と次の太清宮本については、次の論文による。なお窪氏は杭州本を吉岡本、太清宮本を福井本と称しておられる。
        吉岡義豊著『道教と仏教・第一』日本学術振興会一九五九〜一九七六  「第六章 宋元時代における老子變化思想の歸結」
  注五、太清宮本にいては、次の論考にも言及がある。
       福井康順著「道教の基礎的研究」『福井康順著作集』第一巻 法蔵舘 一九八七
  注六、注三Aの窪氏の論考、三十八頁
  注七、路工「道教藝術的珍品ー明遼寧刊本《太上老君八十一化圖説》」『世界宗教研究』一九八二 第二期
  注八、この「下文」は、はたして絵図の解説文をさすのか、あるいは大淵本のように下段に河上公注道徳経が配されているという意味なのか判断に迷
       うが、ここでは図像に対する解説文の意と解釈しておく。


 第二節 大谷大学蔵太清宮本について

 福井氏蔵の太清宮本については、吉岡氏がその序文の順序などの全体構成を報告されている。(注九)それを大谷大学蔵本と比較すると、両者はまったく同一と言ってよい。ただ吉岡氏の報告に見られない点が二三あるので、あらためてその構成について紹介しておきたい。大谷大学蔵の太清宮本は、その表紙に

   歳庚午陽月
     道徳経 太上繪図八十
           一化河上公註
     震庚道人書籖

 とある。
 巻頭には、遼寧太清宮方丈の葛月潭老師による民国十九年(一九三〇)の記年をもつ「繍像道徳經序」が二葉四頁にわたって存し、それによると、龍門二十代の道士王育生が、光緒年間に道藏の中より河上公注道徳経を「檢出」し、八十一化図を付して四百部ほど印刷したという事である。(注十
 この序から吉岡氏は現在のように八十一化図説と道徳経が合刻されるようになったのは「王育生道士の発案にかかるもののようである。」としておられるが、はやく大淵本にその先蹤がみられる点から、窪氏は葛月潭の誤認であろうとしている。(注十一
 この葛月潭老師については、みずから太清宮に起居し、老師と交友もあったという五十嵐賢隆氏の『太清宮志』に数葉の遺影とともにくわしい記事が見られる。(注十二) 同書によると、老師は咸豐四(一八五四)年山東に生まれ、同治三(一八六四)年太清宮にて十九代張円■(王へんに叡の左)律師より伝戒を受けている。そして民国三(一九一四)年六十歳の時太清宮方丈の地位につき、第二十代律師となっている。民国二十三(一九三四)年十二月十五日羽化したという。
 五十嵐氏は老師より「序文並びに題簽の書として」数種の典籍の贈呈を受けたといい、その中に『道徳経太上絵図八十一化河上公注』の名が見える。また同書「太清宮器具老帳及び蔵書類」によると、太清宮の玉皇楼には上海版道蔵などと並んで、『道徳経太上絵図八十一化河上公注』が蔵されているとある。
 さらに老師は平生より日本来訪を願っており、昭和八(一九三三)年奉天の仏教・道教・ラマ教の代表が来日した満州国宗教使節団への同行をのぞんだが、高齢のためかなわなかったようである。楠山春樹氏によると、このときの使節団が当時の帝国大学に寄贈した太清宮版『八十一化図説』が東大図書館に所蔵されているとのことである。(注十三)おそらくこれらも葛月潭老師の序文をもつ太清宮本であったろうと思われる。
  続いて表裏二葉の図(出関図と尹喜受経図)があり、第二葉の前半部分に「中華民国萬歳萬萬歳」の碑牌が掲げられ、後半部から明の太祖の道徳経序が四葉表の前半部までをしめる。そのあと「注老子道徳眞經上 河上公章句」という一行が有り、四葉後半部から尹文子真人よりはじまる三十一人の真人図がつらなる。この真人図は、杭州本では一葉に二名づつ画かれているが、太清宮本では一葉に四名となっている。しかし太清宮本の真人図をよく見ると、前後ふたりの間で背後の雲気紋に断絶と食い違いがあり、本来はやはり一葉二名の配置であったことが知られる。さらに最初の一葉だけ三名の真人が画かれている点について、窪氏は後世の書き足しの可能性を指摘している。(注十四
 第八葉より『八十一化図説』が始まるわけであるが、第一化の解説文の前に次のような四行ほどの記事が加えられている。

  金闕玄元太上老君八十
  一化圖説巻第薄関清
  安居士令孤璋編修

  太華山雲臺觀通微
  道人史志經引經全鮮

 おそらく二行目「第」のあと「一」が脱落しているのであろう。またこの「金闕玄元太上老君八十一化圖説」というのが、正式書名であろう。
 巻末には二名の武人像と空欄のままの碑牌が画かれ、そのあと五十九名の賛助者の列名があり、最後に以下のような奥書がある。

   印刷者   遼寧小西關(小字)
              同仁山房
   繪圖者   楊襄九
   繕冩者   孫斐然
   校對者   朱曉東  

 先にも述べたように、太清宮本を含む現行本と原本との関係については、先学のいくつかの論考がある。しかし原本の姿を伝える資料が『至元弁偽録』に引用せられた佚文しかなく、それらと現行本解説文との比較研究に限られてしまうというのが現状であった。そこで筆者は、視点を変えて現行本の図像を分析し、その上で原本・現行本両者の解説文との関係を探ることにした。今回は八十一ある場面の中から、特に化胡説と関わりが深いと考えられる第十八化と第四十五化を取りあげ、以下にて分析を試みることとした。
 
注釈
  注九、注四に引く吉岡氏の論文参照。
  注十、「繍像道徳経序」
       龍門二十代道士王公育生、上明下泰、出家於本溪縣鐵刹山三清觀、度師李圓修、於光緒初年、挂■(示へんに丹)於奉天太清叢林、
       領地庄執事、歴四十餘年之久、望杏開田、課晴問雨、……因取河上公所註道徳經并繪老君八十一化圖像、印刷四百
       卷、散贈斯人、……今王公育生由道藏檢出是經附圖印刷廣爲流傳……
        民國十九年十一月遼寧太清宮方丈
                葛明新月潭甫■(言へんに巽)於斗姥宮
  注十一、吉岡氏の説は注四の論文百八十六頁。窪氏の説は注三Aの論文六頁参照。
  注十二、五十嵐賢隆著『道教叢林・太清宮志』満州文化普及会一九三八
  注十三、楠山春樹『老師傳説の研究』 創文社一九九二
  注十四、真人図については注二Aの窪氏の論文に詳細な論究がある。
                                                                                                                                                                     
  次頁《2p》へ