『列仙全伝』:研究(一) |
第三節 『三才図会』人物編仙伝類について《13p》 |
3-1 『三才図会』について |
『列仙全伝』が汪雲鵬により上梓されたのが万暦二十八(一六〇〇)年、洪自誠が『仙佛奇踪(蹤)』をまとめたのが万暦三十(一六〇二)年、
更にそこから「消揺墟」の部分が抜き出され、『消揺墟経』として張国祥の手により続道蔵に収載されたのが万暦三十五(一六〇七)年である。いずれも明朝・万暦の
間になされているが、ここにもう一種、万暦期に編纂された書物がある。それは王圻という人物の手になる『三才図会』である。 周知のごとく『三才図会』は中国を代表する図解百科であり、わが国にも大きな影響を与え、『和漢三才図会』を生み出すことになった程の書物である。 中国の伝統的図書分類で言うなら「類書」ということになろうが、他の多くの類書類と異なる点は、この『三才図会』は単なる事例の集積や解説だけではなく、 その大部分に図版を取り込んだというところにある。このことは、単なる仙伝集ではなく、図像を附して『列仙全伝』を上梓した汪雲鵬が抱いた意識と相通じるものが 根底にあると看取しうる。その根底にある意識とは、単に汪雲鵬、王圻の二者のみに存在したものではなく、言わば万暦という時代の持つ共通した時代意識であるとも言える。 一部の知識人にのみ限られていた様々な学問的文化的事象が、より広範囲な人々に開放され受け入れられていったという状況を表す時代の共通意識であったとも 言えるのではないだろうか。 話を『三才図会』に戻そう。筆者が本研究に用いた『三才図会』は上海図書館蔵の明万暦王思義校正本の影印本であるが、この王思義とは王圻の息子であり、 父の後を受けて編纂作業を進め、全百六巻八十冊に及ぶ『三才図会』を完成させた人物である。この影印本には巻頭に四種の 序文(周孔教序・顧秉謙序・陳継儒序・王圻序)が載せられており、そのうち周孔教の序文には万暦三十七(一六〇九)年の年記があり、王圻自身の序には 万暦丁未(三十五年・一六〇七)年の年記が見られる。このことから、王圻の手になる原『三才図会』は一六〇七年頃一応の完成を見、後に息子の王思義の手による 補完作業が一六〇九年頃には終えられていたであろうと推測される。王圻自身については『明史』に本伝があるが、息子の王思義についての詳細は詳らかにし得ない。 (注40) 『三才図会』とは全体が天・地・人の三才に分けられているところからつけられた名前であるが、実際は更に十四の小部門に分けて、文章と図版による解説がなされており、 この十四の部門には後序のようなものがついている。今回筆者が対象とする人物部には何爾復なる人物による序文が附せられている。その序文中には、 「ごく少数の人物に絵像を附した釋道の伝記の例はあったが、この『三才図会』におよんで初めて大々的に絵像を附すことがなされたのだ。」というような意味のことが 書かれている。 また『三才図会』の四種の序の後には、十数条におよぶ凡例が挙げられており、その八番目に次のような記事が存する。 三才圖會凡例この凡例に拠るならば、『三才図会』は諸書からその伝記や絵像を採集して作り上げたものであるということになる。『三才図会』のような、 広範な文物について解説を加え、更に絵像を附すなどいうことは、全くの独力によってなし得ることではなく、当然先行する諸書を参考としているものと考えられる。 例えば仙釋以外の人物図で言うなら、歴代の皇帝や杜甫・李白のような文学者の図像は、先行する『歴代古人像賛』等の影響下に成り立っているように推察される。 (注41)そうした観点から考えるなら、今問題にしている仙伝の部分も当然のことながら、参考にした先行書があると考えた方が 良いであろう。『三才図会』の仙伝部分の場合、その先行書として候補に挙げられるべきものは、前章でも述べた『仙佛奇踪(蹤)』・『消揺墟経』や『列仙全伝』 であろう。 |
[注釈] 3-1 注40 『明史』巻二百八十六には、次のような記事があるだけで、『三才図絵』については何も触れておらず、その生卒年も明確ではない。 同邑有王圻者、字元翰。嘉靖四十四年進士。除清江知縣、調萬安。……所撰續文獻通考諸書行世…。 注41 中国古代版畫叢刊所収『歴代故人像贊』 明・成化十一(一四七五)年刻 |
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