『列仙全伝』:研究(一) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第二節 『消揺墟経』と『仙佛奇踪(蹤)』について《12p》 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2-6 撰者について |
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ここで、二章の初めから保留しておいた『仙佛奇踪(蹤)』の撰者について検討を加えよう。すでに述べたように続道蔵本に附されている序は、袁黄なる人物の手によることは明らかである。その序から『消揺墟経』およびそのもとになった『仙佛奇踪(蹤)』の作者は洪応明(自誠)であることがわかる。また、『道蔵提要』ではまったく選者について触れられていない「長生詮」、「無生訣」も洪応明の撰である。しかし洪応明については字と号以外は一切未詳であり、『四庫提要』も「應明字自誠、號還初道人、其里貫未詳」と記すだけである。(注32) また、日本で特に読者が多い『菜根譚』の作者がこの洪応明である。『菜根譚』研究者の間でも、一時洪応明と洪自誠は別人物ではないかとの説も出て混乱した時期もあったようであるが、現在は洪応明(字自誠)の作であると結論づけられている。(注33) 先程から繰り返し述べているように、洪応明自身については、頼りになるような伝記資料は一切残されていないので、『仙佛奇踪(蹤)』の引文(仙引・仏引など)に名の見える周囲の人物――了凡道人袁黄や眞実居士馮夢禎、あるいは『菜根譚』に題詞(序)を寄せている友人の于孔兼らとの関係から、その事跡を考えるほかない。 そうした問題については、今井宇三郎氏が数編の研究成果を公にしており(注34)、特に「菜根譚の成書時期について」の中において詳細な考察を加えておられる。その結論だけを紹介させていただこう。 洪自誠が「仙佛奇蹤」を撰輯し了えた満暦三十年(壬寅)には、袁了凡が六十九歳、馮夢禎が五十五歳、于孔兼が四十四歳である。(C)の于孔兼題詞に「友人洪自誠」と稱していることから考えて、洪自誠が于孔兼とほぼ同年齢位であったと推定する。(八一頁)ここに挙げられている年齢はあくまでも一つの推定ではあるが、十分に肯首できるものであると考える。また今井氏は酒井忠夫氏と共著の「菜根譚の著者について」という論文で、洪応明という人物を次のように評しておられる。 要するに菜根譚の著者洪応明は、三教兼修の士であり、陳継儒らとともにいわゆる清言者の代表的人物である。彼は、明末の善書運動の中心人物であった袁黄の弟子で、その著書には仏教・道教に関したものもあり、特にその道教関係の著書は、続道蔵に収められる程に、当時の道教界に受け入れられる立場の人物であった。(五百三十九頁)さらに両氏は同論文中の別の個所で「しかも道蔵に収められたところからすると、洪応明は道教界で注目されていた人物であることがわかる。少なくとも洪のこれらの書物が、道教界に受け入れられる内容のものであったのである。」(五百三十頁)と述べておられるが、続道蔵に収められるイコール注目されていた人物という評価にはいささか賛意を表しがたいものがある。さらに今井氏は岩波クラシックスに収められる『菜根譚』の解説中では次のように述べておられる。 「消揺墟」と「長生詮」の二書に見られる多彩な内容から、これらの撰揖にはかなりの年月を要したであろう。(注35)これらの今井の考えに筆者は少しく疑いを抱いている。ともかく、洪応明は明代万暦期に活動した三教兼修の人であったことは確かである。 ではなぜ筆者はこのように洪自誠を高く評価する意見に疑義を持つかというと、そもそもこの『仙佛奇踪(蹤)』という書物に対して高い評価をしていないためである。より端的に述べるなら、『仙佛奇踪(蹤)』という書は洪自誠が「列仙伝や神仙伝等の諸書から、任意に抜粋したもの」(注36)でも「多くの仙書から、その精髄を撰輯した」(注37)ものでも、まして「かなりの年月を要」するようなものでもないのである。『仙佛奇踪(蹤)』の、特に「消揺墟」に限って言えば、これはまさしくハサミとノリをもってして『列仙全伝』を切り貼りしたお手軽なダイジェスト版にしか過ぎないのである。むしろこうしたダイジェスト版が世間に堂々と(?)流通して続道蔵に収められるほどに人々に求められ、必要とされていたという点に筆者は興味を持つのである。 さてそこで実際にどの程度『仙佛奇踪(蹤)』が『列仙全伝』を剽窃しているかについて検討しよう。前項で紹介した諸本の中で、成立年次は四庫本がもっとも早いが、立伝されている人物に関しては、完全な形に近いと考えられるのは続道蔵本であるので、以下続道蔵本に基づいて『列仙全伝』との比較を行ってゆくこととしたい。 続道蔵本に収録されている仙人六十三名は、当然のことながら『列仙全伝』にもすべて伝が存在するが、その伝記を比較すると、『列仙全伝』とまったく同文であるものは、赤松子・左慈・張志和・李鼻涕など半数近い二十五例にも及ぶ。また、比較的長文である『列仙全伝』を数行、あるいは数字を省略して簡略化したものと思われるものが三十七例ほどある。対して全く内容の異なるものはたった一例、馬成子の伝だけである。(詳細は巻末の表2参照)なぜこの一例だけが異文であるのか、筆者には未詳であるのだが、六十三例のうち半数近くが同文で、その他も殆どが節録したものであることから先ほど下したような、『仙佛奇踪(蹤)』は『列仙全伝』を剽窃したものだ」という結論には異論がないものと考える。同文の例を挙げて紙数を労する愚は犯さないが、『仙佛奇踪(蹤)』が、言いかえるなら洪自誠がいかにして『列仙全伝』に収録されている長文の伝を節略しているか、その例を挙げよう。
これは巻一の二人目に立伝されている東王公の伝であるが、下線を施した部分が省略、もしくは文字に異同のある箇所である。『列仙全伝』では、「木公」と「東王公」という二つの名で立伝されているが、ここに挙げたのはそのうち「木公」のほうである。「木公」という標題であるから六行目の「亦號東王公」の部分はそのままなため、矛盾をきたしている。内容上の大きな違いは十行目の仙人の「九品」という段階を示す具体的な名称が、道蔵本で省略されているだけで、その他はほぼ同文である。 あるいは、「消揺墟」が『列仙全伝』以外の他書に拠って書かれたのではという疑念を抱く方がおられるかも知れないが、これだけ表現の一致するものは他に例を見ない。参考までに『歴世眞仙體道通鑑』に見える東王公の伝を掲げて比較してみよう。 歴世眞仙體道通鑑卷之六『歴世眞仙體道通鑑』は先行する『太平廣記』に基づくものであり、(注38)明らかに異文である。恐らく全く参考にすらしていないであろう。勿論『列仙全伝』に見える記事の多くは、先行する他の仙伝類からの引用・借用である。例えば出だしの部分は『酉陽雜爼』の「東王公、諱倪、字君明、 天下未有人民時……」という一文によるのであろうし、「登臺」の記事は『真誥』に、末尾の「戯謡」は『真誥』を初めとして『三洞群仙録』や『■(土へんに庸)城集仙録』等の諸書にも見える故事でもあるし、「九品」の具体的名称はその『■(土へんに庸)城集仙録』に見える。(注39)『列仙全伝』の原拠はこうしてほぼ明らかにできる。しかし『仙佛奇踪(蹤)』はこうした先行する諸書を勘案して作成されたものではなく、あきらかに『列仙全伝』を節略して作成されたものである。 以下個々の例については、稿をかえて詳しく述べることにし、もう一例だけ、短い例を挙げよう。(全体におよぶ『列仙全伝』と続道蔵本の対照については、巻末の表2を参照)
もはや原拠となった資料などを挙げる必要もないであろう。この青烏公の例など『列仙全伝』自身もそう長文の伝ではないのに、それをあえてここまで簡略にしてしまうのである。これが『仙佛奇踪(蹤)』の正体である。 最後にただ一例だけ両者が異なる、馬成子の伝を紹介しておこう。 『列仙全伝』巻二 続道蔵本『消揺墟経』大意にそれほどの違いはないのだが、表現の微妙な違いがこれほど目につく例はほかにないため、その解釈・理解を決し難く、博雅の諸子のご教示を待ちたい。 以上縷々述べた如く、これまであまり着目されてこなかった『列仙全伝』という書物をもととして『仙佛奇踪(蹤)』 が生み出され、さらにその中より「消揺墟」の一編が抜き出されて続道蔵に収められ、それが『消揺墟経』と呼ばれ、さらには大谷本『列仙伝』のような書物までが作り出される。現代なら剽窃と言っても良いような、一連の書物の改作は実はこれで終わりではないのである。以上述べた改作が行われた明の万暦時代にほとんど時を同じくして、もう一種別の引用・剽窃が行われたのである。以下第三章ではその書『三才図絵』について述べることとしたい。 |
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[注釈] 2−6 注32 『四庫提要』仙佛奇蹤四巻 内府藏本 明・洪應明撰、應明字自誠、號還初道人、其里貫未詳、是編成於萬暦壬寅、・・・・・・(明・洪應明撰。應明字は自誠。還初道人と號す。其の里貫は未だ詳びらかにせず。是の編は萬暦壬寅・・・・・・) 注33 今井宇三郎「菜根譚の成書時期について」 大東文化大学漢学会誌第十四号 昭和五十年 中村璋八・石川力山訳注『菜根譚』の解説 講談社学術文庫 1986年 注34 A酒井忠夫・今井宇三郎「菜根譚の著者について」『山崎先生退官記念東洋史学論集』 1967年 B今井宇三郎「菜根譚の成書時期について」 大東文化大学漢学会誌第十四号 昭和五十年 注35 今井宇三郎訳注『菜根譚』解説 三百七十二頁 岩波クラシックス11 1982年 注36 注26七十四頁 注37 注26七十九頁 注38 『太平廣記』巻一 注39 『真誥』 昔漢初有四五小兒路上畫地、戲一兒歌曰、著青裙、入天門、損天門、揖金母、拜木公、到復是隱言也、時人莫知之、唯張子房知之、乃拜之、此乃東王公之玉童也、所謂金母者、西王母也、木公者、東王公也、仙人拜王公、揖金母、『■(土へんに庸)城集仙録』巻一 金母元君 世之昇天之仙、凡有九品、第一上仙、號九天眞王、第二次仙、號三天眞皇、第三號太上眞人、第四號飛天眞人、第五號靈仙、第六號眞人、第七號靈人、第八號飛仙、第九號仙人、凡此品次不可差越、然其昇天之時、先拜木公、後謁金母、受事既訖、方得昇九天、入三清、拜太上、覲奉元始天尊耳、故漢初有四五小兒、戲於路中、一兒歌曰、著青裾、入天門、揖金母、拜木公、時人皆莫知之、唯張子房知之、乃往拜焉曰、此乃東王公之玉童也、仙人得道昇天、當揖金母而拜木公也 |
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