中国の図像を読む
第六節 黄金バットは中国生まれ?《12p》
 
 七、日本の蝙蝠文
 
 日本の文献資料のいくつかにもコウモリについての記事が見られるが、古い時代のものはおおむね中国の資料と大同小異であり、特にコウモリを吉祥物ととらえたようなものは見受けられない。ただ江戸時代になると、いくつかのユニークなコウモリ談が現れるので、そのいくつかを紹介しておこう。
 『宗祇諸國物語』の巻四「怪在一心(怪しみ一、心に在り)」の項に、怪物を捕まえてみれば大コウモリだったという話が載っている。
……程なく天井より物音あわたゞしく、羽たゝきしておるゝと思へば、燈きえぬ。心得たりと飛びつき、落ちたる順道をひたとつかみて、物ひとつつかみ得たり。手ぢかく用意したる埋火、片手を持ちてともし付け、其の物を見れば、鴟の大きさしたる蝙蝠なり。つくづくと思ふに、古きかうもりの天井に住みて、我がいねたる後、鼬鼠なんど追ひまはしてあさるとて、羽風に燈きゆるなるべし。然れば、化生といふ迄はなし。されどかく大きなる蝙蝠はめづらかならんと、麻縄をもてつなぎ、人を集めてみせけるにぞ、各驚きける。……
 また、『提醒紀談』には、夫婦の情愛厚いコウモリの話が出てくる。家を改築しようとして土蔵の雨避けを修理しようと壁板をはがしてみたところ、翼を釘によって打ち抜かれたコウモリがいた。そのコウモリは長い間壁の間で釘に打ち抜かれたまま飛び回ったらしく、あたりの壁が輪のように 窪み、打ち抜かれた翼にも丸く肉塊が生じていたという。そして次のように話は続く。
 彼大工、これを見て嘆息して云。かく蝙蝠を苦しむること、これ乃我罪なり。この蝙蝠の歳月を經ること已に久しきうち、何を食物として活きることを得たるにやと思いつつ、心をつけて見るに、その棲るところの下に糞あり。いと不思議のことといへば、近きあたりの者、このことを聞きて観に来る者群衆せり。その中にある人の云。その蝙蝠は雌か雄かはしらねど、その隅の一つが餌を運びて 扶け養ふことを疑うべからずといへり。かかれば人みなその夫婦の情の厚きを感じ。涙をおとして憐れがりしとぞ。大工も槌をなげ捨て涙ながらに噫汝蝙蝠なれど、我ためには慈悲を諭すの善智識にも異ならず。我今より生涯ゆめゆめこの事を忘れるまじといへり。かくて主人も改めるに忍びず、その中うち貫かれたる釘を抜き放ちやりて、したみは改め造らざりけり。その蝙蝠はもとの如く棲みて、夕暮毎に出入をなしたりとかや。
 これら二つの話に見えるコウモリは、さほど人々に忌み嫌われてはおらないようであるが、さりとて吉祥物というほどのとらえ方はされていない。
 ただ、前節でも紹介しておいた蝙蝠を描いた図像の中に、鍾馗とともに描く年画があったが、これなどは当時日本にも伝わり用いられていたことを示す記事が『三養雑記』に見える。
○ 鍾馗に蝙蝠を畫ける圖
 鍾馗はもと玄宗の夢るところ、その事、唐逸史に見えたり。今和漢ともにその圖を伝えて、辟邪の神とす。世に鍾馗の像のかたわらは、蝙蝠をゑがけるものままあり。何なるわけにてゑがくというふことを、疑ふものなきにあらず。予かつておもふに、鍾馗は辟邪の神、蝙蝠をゑがくは、迎福の意にて、辟邪迎福の圖ならん。蝙蝠の蝙を普通にて福字にかへて、蝙蝠に鹿を畫きて、福禄の圖とするが如きみな慶祝の意を寓することとおもひたりしに、新渡の大錢に錢面に驅邪降福の字ありて、その背は鍾馗の蝙蝠の圖あり。予が意に暗合せり。……
 このように江戸時代には、日本においても蝙蝠が吉祥物の一つであるという認識は正しくなされていたことが知れる。これに加えて、 当時蝙蝠文が庶民の間で大流行した事実を伝える記事が『寐ぬ夜のすさび』巻三に見える。
○ 蝙蝠の模様
 此四五年前より、蝙蝠のはやる事夥し、夏衣の染模様はさらなり、簪のさし込、くしのまきゑ、手拭などやうのもの、かふもりならざるはなきやうなり、又三すじ格子の縞をつける、此縞を地につけて、それに蝙蝠の飛るかたちをゑがくが多し、是は市川團十郎が紋より出でたるなり、かれが紋に一輪牡丹を用ふ、是を福牡丹という、(此ぼたんをつけるは、助六という役を勤める事、かれが家の役なりというより、轉じてかれが紋の如くなれるなり。)この福牡丹の福という字を蝠にとりなして、蝙蝠の紋につけしより、かく流行いたせしなり。又三すじ格子は、家紋の三枡を格子にとり、崩してかくせしなり、今も猶廢らず行はる。
 この七代団十郎が用いたものと思われる、「又三すじ格子に蝙蝠」がデザインされたタバコ入れが三十九図にあげるものである。(この章続く)

三 十 九 図
「三すじ格子に蝙蝠」のたばこ入れ
(『骨董の知識百科』より)
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