中国の図像を読む
第六節 黄金バットは中国生まれ?《3p》
 
 三、詩文の森のコウモリたち
 
 前条に述べたように、古代の中国では蝙蝠は仙薬としてとらえられることがほとんどで、 それ以外には吉祥性を暗示するような記録は目にすることができない。例えば仙薬ということを抜きにした蝙蝠に関する記事で注目すべきものは、 魏の曹植が書いた次のような文学作品である。
  蝙蝠賦
 
吁何姦氣生茲。蝙蝠形殊性詭、毎變常式。行不由足、飛不假翼。明伏暗動、盡似鼠形。謂鳥不似二足、爲毛飛而含齒。巣不哺■(穀の禾が鳥)、空不乳子。 不容毛羣、斥逐羽族。下不蹈陸、上不馮木。
(吁あ何ぞ姦氣茲れを生ず。蝙蝠形殊にして性詭なり、毎に常式を變ず。行くに足に由らず、飛ぶに翼を假らず。明きとき伏し暗きとき動く、 盡く鼠形に似て。鳥と謂うにも二足に似ず、毛飛を爲すも齒を含む。巣くえども■(穀の禾が鳥)に哺せず、空しく子に乳せず。毛羣に容らず、羽族に斥逐せらる。 下は陸を蹈まず、上は木に馮らず。)
 この作品は曹植が、あるいは当時(三国時代)の人々が蝙蝠に対してどういうイメージを抱いていたかをよく示している。そのイメージを一言でいうなら、獣とも鳥とも思えない正体不明の生物であり、全編その鵺的性質の描写に費やされ、ただの一句として幸福を呼ぶとも、おめでたい生物だとも記されては いない。しかし、曹植は、まだ蝙蝠のことを詠っただけましなのかもしれない。当時の他の文人たちは、彼らのつくる詩の中に蝙蝠という言葉を用いようとすらしていないのだから。
 詩の中に蝙蝠という文字が見受けられるようになるのは、この詩という文学形式が最も隆盛を迎える唐代になってからのことである。
   山石           韓愈(注8
山石犖■(石に角)行徑微  山石 犖■(石に角)として行徑微かなり
黄昏到寺蝙蝠飛      黄昏 寺に到り 蝙蝠飛ぶ
……
   城南聯句        韓愈
暮堂蝙蝠沸       暮堂 蝙蝠 沸き
破竈伊威盈       破竈 伊威 盈つ
……
   正月崇讓宅        李商隱(注9
蝙拂簾旌終展轉     蝙 簾旌を拂い 終に展轉
鼠翻窓網小驚猜     鼠 窓網を翻し 小や驚猜
……
   夜半           李商隱(注10
闘鼠上床蝙蝠出     闘鼠 床に上り 蝙蝠出づ
玉琴時動倚窓絃     玉琴 時に動き 窓に倚れる絃
……
   魚龍山          李商隱(注11
時時白蝙蝠       時時 白蝙蝠
飛入茅衣中       茅衣中に飛び入る
……
 これらの蝙蝠が読み込まれている詩を一読して気づくことの一つは、どの詩においても、単に夕暮れという時間帯を表現するための一点景 として用いられているということである。夜に活動するという蝙蝠の特徴を利用して、詩の中に登場させることにより、夕暮れの迫り来ることを 婉曲に表現したものである。他の唐代の詩に詠われた蝙蝠も、神仙思想との関わりを示すもの以外は、おおむね時間表現のために用いられているにすぎない。
 ただ、少し趣を異にする例として、次にあげる白楽天の詩のようなものもある。
   洞中蝙蝠        白樂天(注12
千年鼠化白蝙蝠    千年 鼠白蝙蝠に化す
黒洞深藏避網羅    黒洞 深く藏れて網羅を避く
遠害全身誠得計    害を遠ざけ身を全うするは誠に得計
一生幽暗又如何    一生幽暗なるも又如何
 蝙蝠が暗く深い洞窟に潜んで、人間の仕掛けた罠や網を避けて暮らすように、自らも保身のためには俗世間を離れ、山中深くにでも隠棲するのが得策だと いうのである。いわば、自らも蝙蝠のような人目を避けた生活をしたいというのであり、そういう意味からは隠者の暗喩として蝙蝠が使われているとも 言い得る。
 このように唐代の詩の中には、一向に吉祥物としての蝙蝠は現れてこない。いや、唐代だけではなくそれ以後も、そして吉祥物としてどころか単なる 記事としても、文献上には蝙蝠が現れてくることは稀である。そんな中でいくつか目に留まったものだけでも紹介することにしよう。
   『見物』
爾雅曰……論曰、蝠以禽非禽、以獸非獸、夜飛■(口へんに最)蟲、暗中喞喞、及旭日東升、即竄伏無迹、其譎詐誠可厭者……
(爾雅に曰く……論に曰く、蝠は禽に以て禽に非ず、獸に以て獸に非ず、夜飛びて蟲を■(口へんに最)う。暗中に喞喞として、旭日の東に升るに及び、 即ち竄伏して迹無し、其の譎詐にして誠に厭うべき者なり……)
 この『見物』という書物は、明の李蘇という人が書いたものであるが、この時代になってもなお、蝙蝠は嫌われ者として扱われている。
   『集古偶録』
蝙蝠以晝爲夜、以夜爲晝、其性之詭異可怪也。
(蝙蝠は晝を以て夜と爲し、夜を以て晝と爲す、其の性の詭異たるや怪しむべきなり。)
 この書は、清の陳星瑞が著したものであるが、やはり単に奇怪な生物という、前代までの理解となんら異なる所が無い。
 こうした記事とは別に、わずかではあるが、仏書の中にも蝙蝠が登場する。例えば『諸經要集』巻第二十では、「夜は蝙蝠を患え、昼は燕鳥を患う。」という ように、悟へ至る際の障害物に喩えられている。あるいは『大唐西域記』巻二には、次のような感心な蝙蝠の話が載せられている。
嚢者南海之濱。有一枯樹。五百蝙蝠。於中穴居。有諸商侶。止此樹下。時屬風寒。人皆飢凍。聚積樵蘇。薀火其下。煙焔漸熾。枯樹遂燃。 時商侶中。有一賈客。夜分巳後。誦阿■(田へんに比)達磨藏。彼諸蝙蝠。雖爲火困。愛好法音。忍而不去。
(嚢者、南海の濱に一枯樹有り。五百の蝙蝠。中の穴に居る。諸の商侶有りて。此の樹の下に止まる。時に風の寒きに屬たり、人皆飢凍す。 樵蘇聚積し、其の下に薀火す。煙焔漸やく熾んにして、枯樹遂に燃ゆ。時に商侶の中に、一賈客有り。夜分巳後。阿■(田へんに比)達磨藏を誦す。 彼の諸の蝙蝠、火の爲に困しむと雖も、法音を愛好し、忍びて去らず。)
 この話に出てくる蝙蝠は、自分の身が焼けるのもかまわず仏法に耳を傾けたというのであるが、ここに蝙蝠が用いられているのには、 他のいかなる動物でもなく、「人々に忌み嫌われるあの蝙蝠でさえ」という意味がこめられているとも考えられる。
 このように詩文の中では古来、あまりよいイメージを付与されることがなかった蝙蝠であるが、いつの頃からか幸福を呼ぶ動物として様々な文物に 意匠化され、中国の人々に愛好されてきている。はたして、蝙蝠と幸福が結びつくようになったのはいつの頃からなのか、文献の上から明らかにすることは できないが、現存する各種の文物の中に描かれた蝙蝠文様を博捜してみるに、明代以前の文物に蝙蝠をデザインしたものは見受けられない。 宋・元代の現存する遺品が限られるということにも一因があろうが、むしろ他の多くの吉祥文の隆盛と同様に、蝙蝠文も明代以降、 盛んに用いられたものと考えられる。ただ、阮栄春氏は、その基づくところを明らかにはしないが、「蝙蝠文が福の意を含む寓意文様となったのは、 宋、元時代以降のことであった。」(注13)と述べておられる。
 いずれにしろ、この頃蝙蝠が幸福の寓意性を担い、それまでの単に人々から白い目で見られ続けた鵺的生き物であることから脱したことは確かである。
 肝心なことを言い忘れていた。なぜ蝙蝠が幸福の寓意性を担うことになったのか、その理由を明らかにしておこう。これまで述べた中国の吉祥物の ほとんどがそうであったように、この場合もまた言葉のもつ音的要素が重要な意味を持つ。おおげさな言い方をしたが、簡単に言えば「音が通じる」と いうことである。文字を見ても明らかなように、蝙蝠の「蝠」の字と幸福の「福」の字は同じ音符を持つ字であり、その発音も「fu」という音で 全く同一である。故に、中国人は「蝙蝠」と耳で聞いたとき、容易に幸福のイメージを呼び起こされるのである。
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【注釈】
8、『朱文公校昌黎先生集』巻三
9、『朱文公校昌黎先生集』巻八
10、『李義山詩集』巻五
11、『李義山詩集』巻六
12、『白氏文集』第六十八
13、『舗地・中国庭園のデザイン』所収「舗地の文様・文人が築いた庭園文化」INAX出版