中国の図像を読む
第三節 魚紋アレコレ。《6p》
  (「三、鯉は龍の子供だった?(鯉魚紋)」のつづき)
(三)鯉に乗る仙人たち
 さらに鯉にまつわるまったく別の話が『列仙伝』という仙人の伝記集に見える。
子英なる者は、舒郷の人なり。善く水に入りて魚を捕らう。赤鯉を得て、その色の好きを愛で、持ち帰りて、池中に著く。 しばしば穀を以て之をやしなう。一年にして、長丈余、遂に角を生じ、翅翼有り。子英怪異し、之に拝謝す。魚言う、「我、来たりて汝を迎う。 汝、背に上れ、汝と倶に天に昇らば、即ち大いに雨ふらん」と。子英、その魚の背に上り、騰昇して去る。
歳歳来たりて故舎に帰り、食飲して、妻子に見ゆ。魚復た来たりて之を迎う。此くの如きこと七十年なり。故に呉中の門戸は、 皆神魚を作り、遂に子英の祠を立つ。(注7)
 この話に見える鯉は、大きく成長するばかりでなく、「遂に角を生じ、翅翼有り。」という状態まで変化・変身する。この角が生じるという記事は、 まさに龍への変成を思わせるものではないか。先にも述べたように、鯉は紛うことなく龍の幼体なのである。であればこそ「倶に天に昇ら」んと言うので あり、「大いに雨ふら」すと言うのである。
 また、琴高という仙人の伝記にも鯉は顔を出す。
趙の人である琴高は、琴を弾くのはうまく、宋の康王の舎人となった。涓子や彭祖の術に通じていて、冀州・?郡の地方を二百余年間も 放浪した。のち?水という川で龍の子を取ってくると言って旅立った。その時弟子たちに次のように約束した。「皆潔斎して水辺で待ち、祭場を設けて おくように。」果たして 琴高は赤い鯉に乗って姿を現し、川から出ると祠の中に坐した。そして翌朝には多数の人が彼の姿を見にやってきた。 かくて一月ほどすると、再び川の中へと去っていった。(注8)
 この話の注目すべき点は、琴高がなんと言って川に入っていったかである。「龍の子(原文は龍子)を取」るためなのである。「龍子」とは文字通り 龍の子供だとも、単に龍なのだとも言うが、いずれにしろ龍なのである。その結果、本来なら龍に乗って現れるところを、なんと鯉に乗って現れたと いうのである。この一時をもってしても、鯉がいかに龍と強い結びつきを持っているか明らかであろう。
 このような話は琴高・子英以外にも何人かの仙人の伝記中に見られるのだが、こうした仙人を図案化したのが、十八及び十九図である。 これらの図案は、特に日本の陶器類の絵付けとしても愛好されている。

十 八 図
「色絵琴高仙人図鉢」 伊万里
『日本の文様18』より

十 九 図
群仙図 明治時代
『国立博物館図版目録』より
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【注釈】
7、『列仙傳』子英
 子英者、舒郷人也。善入水捕魚。得赤鯉、愛其色好、持帰、著池中。数以米穀食之。一年、長丈余、遂生角、有翅翼。子英怪異、拝謝之。魚言、 「我来迎汝。汝上背、与汝倶昇天、即大雨。」子英上其魚背、騰昇而去。歳歳来帰故舎、食飲見妻子。魚復来迎之。如此七十年。故呉中門戸、皆作神魚、 遂立 子英祠。
8、『列仙傳』琴高
 琴高者趙人也。以鼓琴爲宋康王舎人。行涓彭之術、浮遊冀州人・?郡之間二百餘年、後辭入?水中。取龍子、與諸弟子期曰、皆潔斎待於水傍設祠。 果乘赤鯉來、出坐祠。旦有萬人觀之。一月餘、復入水去。
 (琴高は趙人なり。琴を鼓するを以て宋の康王の舎人爲る。涓彭の術を行い、冀人・?郡の間に浮遊すること二百餘年、後辭して?水中に入り。龍の子を取る、 諸弟子と期して曰く、皆潔斎して水の傍に祠を設けて待てと。果して赤鯉に乘りて來たる、出でて祠中に坐す。旦に萬人之を觀る有り。一月餘にして、 復た水に入りて去る。)