中国の図像を読む | |
第二節 鶴は松に巣をつくる?《6p》 | |
七、松鶴図 |
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このように唐代になると、詩文の上では松と鶴とが結びつくのであるが、
この結びつきが松鶴図という形で絵画、ないしは図像上に表現されるようになるのはもう少し時代が下ってからのことと思われる。
たとえば『歴代名画記』などに残された画題を一瞥しても松鶴図と題されたものは見いだし得ない。そもそも六朝から盛唐期頃までは人物画や故事を
題材にした絵画がほとんどであり、花鳥画が主流となるのは唐末から宋代にかけてのことであるとされる。(注37)実際、松鶴図はもとより、
単に鶴を描いたものとおもわれる画題すら『歴代名画記』には存在しない。 筆者の見た所わずかに梁の元帝蕭繹の項に「?鶴陂沢図」という画題が見えるだけである。ただ鶴に関しては盛唐の画家の一人薛稷の項に、彼が 鶴の絵に巧みであったと記されている。薛稷に関しては『宣和畫譜』にも同様に鶴の絵に長じていたという記事が見え、併せて「啄苔鶴圖一 顧歩鶴圖一 鶴圖五」などの絵画があったことを伝えている。 『歴代名画記』にしろ『宣和畫譜』にしろ、その鶴図に松が書き込まれてあったか否かについては一切触れていない。当然短い伝記の中で松に 言及していないからといって、すぐさま松は描かれていなかったのだと断定するわけにはいかない。また『歴代名画記』の中に松鶴図に類するような 画題が存在しないからといって、唐代の人々によって松鶴図がまったく描かれなかったのだと結論づけることもできない。しかしながら少なくとも 当時において松鶴図がさほど人々の注目を集める画題ではなかったとは指摘できる。そのことは『歴代名画記』だけでなく『宣和畫譜』に載せられている 多くの画題が傍証ともなるであろう。『宣和畫譜』には、巻十五以下花鳥画に巧みな画家の小伝とその作品が記載されているが、試みにそれらの中から鶴を 題材にしたと思われるものを列挙してみよう。 五代 黄筌宋 黄居?このように列挙された画題を見てもはっきりと松鶴図に類するものであると判断できるのは、宋の黄居?の作品である「壽松雙鶴圖一」ひとつだけで ある。 ただこの画題はその頭に「壽」と冠せられているように、長寿ということが松と鶴を結びつける重要な働きをしている。ということはこの絵はいわゆる 写生画、写実的絵画ではなく、今日の吉祥図に類する観念上の図像を描いたものである。(注38)一方、竹鶴図のなんと目に付くことか。 むしろこの時代、鶴とともに描かれたものは松ではなく竹であるといっても過言ではないだろう。歳寒の三友、四君子、竹林の七賢といった言葉を持ち出す までもなく、竹も松同様中国人にたいへん愛好された植物であることは言うまでもない。また絵画においても竹百態図集ともいうべき『竹譜詳録』 (元・李?述)別名『畫竹譜』という書物まで生み出している国であれば、鶴とともに竹が描かれても何の不思議もないと言えよう。(注39) ともあれ唐末から宋初にかけてすら、なお松鶴図はその画題の主要な位置を占めるには至っていなかったと結論付けることができよう。松と鶴は、 六朝期に長寿と神仙思想という共通するイメージを持ち、一方で「鶴」という文字の字義の拡張という現象を生じ、その字義の拡張は単なる文字の上の 変容なのではなく、とりもなおさず当時の人々の自然認識力の変化でもあった。この長寿イメージの共有と字義の拡大が相俟って、結果唐代になると 「松に鶴」という表現が詩文に頻繁に現れるようになる。しかし、その「鶴」はあくまでも広義の鶴であり、決して自然に存在するツルではなかった。 そのため現実を視覚的に表現するという、きわめてリアリスティックな作業である絵画の世界ではそう簡単にコウノトリをツルとして描くなどという 混同はなされなかったと考えられる。言ってみれば「松に鶴」という組み合わせは文字表現上での、あるいは言語表現上での観念的組み合わせに 過ぎなかったのであり、それが絵画表現の上にまで及ぶにはもう一つのきっかけ……モメントが必要とされる。そのモメントとなったのが吉祥感では なかったろうか。それを端的に示す例が、先にも挙げた「壽松雙鶴圖」であり、先の注37に引いた蘇軾の詩にあったような働きをする松鶴図なのだ。 単なる美術的作品として鑑賞されるのではなく、その図像によって何かを願ったり、祝ったりする。いわば絵画に祈念や祝福という目的性が加味されたので ある。その目的の前ではリアリズムに観念が勝利する。 松鶴図に限らず他の多くの吉祥図にも同様に指摘できることなのであるが、宋末から元・明へとかけて市民社会の成熟と商工業等の発達による 生産力増大が経済的発展をもたらす。それはまた人々の欲望の肥大化をも助長した。そうした社会的な動きを背景として、様々な欲望充足の願いを込めた 吉祥図が発展し、中でも最も隆盛を迎えるのが民・清時代なのである。そのため松鶴図も明・清以降特に目につくようになる。参考までに 『中國古代書畫圖目』一・二・六・八冊に、鶴を画題とする作品を検索してみると、その総数はおよそ五十作品にのぼるが、その中で松鶴図および それに類する画題を持つものは、十五作品にもおよび、この時代になると盛んに鶴は松とともに描かれ、「松鶴図」そのものも主要画題の一つとなっていた ことを窺い知ることができる。 以上述べたように「松上の鶴」は、まず唐代に詩文の上に現れ、少し時代をおき宋代以降になって絵画の世界に登場するが、以後この吉祥イメージは 連綿と継承され、人々の間に浸透していくのである。そしてその影響は中国にとどまらず、日本にも及んだものと考えられる。 |
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【注釈】 37.『歴代名画記2』長廣敏雄訳注 東洋文庫 解説三三四頁 38. また『聲畫集』巻第八に「生日承劉景文文思以古畫松鶴為壽且?佳篇次韻為謝」という蘇軾の一片の詩を録すが、ここに見える松鶴図も、 生日(誕生日)に贈られていることから推測できるように、やはり吉祥図として取り扱うべきものである。 『蘇軾詩集』巻三十四は「生日蒙劉景文以古畫松鶴為壽且?佳篇次韻為謝」に作る。 39.『竹譜詳録』に先んじて晉の戴凱之に『竹譜』一巻がある。また竹と鶴の結びつきを示す資料として、注35にあげた梅妻鶴子…… 林逋の子孫、林洪の著『山家清事』に収める「相鶴訣」の「養以屋、必近水竹」という一節を指摘できよう。 |