中国の図像を読む
第二節 鶴は松に巣をつくる?《4p》

 五、唐以前の「松に鶴」
 詩・賦類以外の散文資料のうち「松に鶴」の最も古い用例として管見に入ったものに 『淵鑒類函』巻四百十二木部に引く「西京雑記」の次のような一文がある。
東都龍興觀、有古松樹、枝偃倒垂、相傳云、已經千年、常有白鶴、飛止其間。
(東都龍興觀に古松樹有り、枝偃倒して垂る、相い傳えて云う、已に千年を經、常に白鶴有り、飛びて其の間に止まる。)
 この一文は、現在通行の『西京雑記』の中には見えないものであり、また、他の類書類にも引かれることがなく、清代に編纂された『淵鑒類函』に忽然として 出現する資料であり、いささかその信憑性に問題があろう。
 また同じく清の類書の一つである『潜確類書』には『抱朴子』からの引用として「鶴千歳、棲偃蓋松(鶴千歳にして、偃蓋の松に棲む)」という一文を 挙げるが、これも現本の『抱朴子』により検証してみると、実際は「鶴千歳」の部分と「棲偃蓋松」の部分とは、八十時以上離れた別の文脈の中で 述べられたものであり(注Q)、おそらく撰者陳仁錫が「松に鶴」という固定観念や先入観に拘束されて犯した誤りであると推測される。
 さらに次に挙げるような別の記事も存在する。
神境記曰、?(按當作營)陽郡南有石室。室後有孤松千丈。常有雙鶴、晨必接?、夕輒偶影。傳曰、昔有夫婦二人。倶隠此室。年既數百、化成雙鶴。
(神境記に曰う、?陽郡の南に石室有り。室の後に孤松の千丈なる有り。常に雙鶴有りて、晨に必ず?を接し、夕に輒ち影を偶にす。傳えて曰く、 昔夫婦二人有り。倶に此の室に隠る。年既に數百にして、化して雙鶴と成る。)
  この『神境記』という書物は、晉の王韶之が著したと伝えられるが、ここにも長寿という寓意性を仲立ちとして待つと鶴が結び付けられて存在する。 二羽というのが老夫婦のアナグラムであり、その長寿の象徴として松と鶴が用いられているのである。
 今ここに引くこの一文は『藝文類聚』巻八十八に引かれるものであるが、これとほぼ同様の文章が『太平御覧』巻九五三にも引かれている。 ところが『太平御覧』では「室後有孤松千丈、常有雙鵠……」というふうに、松に羽を休める鳥は鶴ではなく『鵠』という鳥になっているのである。 また『説郛』六十に載せる同じ『神境記』の一文は以下のようである。
   蘭巖雙鶴
 
?陽郡西有蘭巖山。常有雙鶴。素羽t然、日夕偶形翔集。傳曰、昔夫婦倶隠此山。年數百歳、化成此鶴。忽一旦一鶴爲人所害。一鶴歳常哀鳴、 至今嚮動巖谷、莫知年歳。
 ここでは『藝文類聚』や『太平御覧』にあった「有孤松千丈」という一句が脱落している。さらに『太平御覧』巻四十二に引く別の『神境記』では、 この部分が次のようになっている。
  蘭巖山
 
神境記曰、?陽縣有蘭巖山。峭抜千丈。常有雙鵠、不絶來往。傳曰、昔有夫婦。隠此山。數百年化成爲此鵠。忽一旦一鵠爲人所害。其一鵠歳常哀鳴、 至今饗動岩谷、莫年歳。
 なんとこの例には鶴どころか松さえも姿を見せない。以上の引用例を問題点にしぼって整理すると次のようになる。
孤松千丈。常有雙鶴、        『藝文類聚』巻八十
孤松千丈、常有雙鵠         『太平御覧』巻九五三
常有雙鶴                『説郛』六十
峭抜千丈。常有雙鵠         『太平御覧』巻四十二
 どの引用例が本来の『神境記』の姿に近いものか確かめる術はないが、この時代(南北朝期)の他の書物にはほとんど鶴と松を結びつけた記事が 見えないことから考えても、本来は最後に挙げた例のように、「千丈」という言葉は松の高さを表すのではなく、山の峻厳な様を表現したもので あったろうと思われる。ところが時代が進むにつれ、長寿の老夫婦という点に引かれて松が取り入れられ、さらに鶴の登場を導いたものと推測される (あるいは逆に鵠が鶴に置換され、そこへ松が加わったとも考えられる)。『藝文類聚』巻八十八に引かれるような松と鶴が結びついたような『神境記』は、 先の『潜確類書』にひかれた『抱朴子』と同様に後世の人々の手が加わったものである可能性が高いと考えられる。
 とするなら、松と鶴が結びついた用例の初出はもう少し時代が下がることになる。すなわち疑いのない形で松と鶴がともに詩文の上に表現されるのは、 北周の?信待たなくてはならない。
   奉和趙王隠士   ?信(注R)
 
……        ……
短松猶百尺。   短松すら猶お百尺。
少鶴巳千年    少鶴すら巳に千年
 
   游山(仙)(注S)   ?信
 
……        ……
唱歌雲欲聚、   歌を唱すれば 雲聚まらんと欲し、
彈琴鶴欲舞、   琴を彈ずれば 鶴舞わんと欲す、
澗底百重花、   澗底 百重の花、
山根一片雨、   山根 一片の雨、
婉婉藤倒垂、   婉婉として藤倒垂し、
亭亭松直竪、   亭亭として松直竪す、
 この二首においては、松と鶴がともに表現されているが、いまだ両者を強く結びつける、松の上に鶴が止まるという所までには至っていない。 ただ前者は隠士に送った詩であり、後者は游仙詩と題されているように、鶴と松を結び付けているのは神仙思想である。
   代人傷往      ?信(注21)
 
青田松上一黄鶴。   青田松上  一黄鶴
相思樹下兩鴛鴦    相思樹下  兩鴛鴦
 
   鶴讃         北周・?信(注22)
 
…………       ………………
松上長悲、      松上に長悲し
琴中永別       琴中に永別す
 ここに挙げた二首を見ると、?信が実際に目睹したかどうかは別にして、彼の頭の中では明らかに鶴は松の枝に羽を休めている。ただひとつ 注意すべきは?信と同時代の北周期の他の詩人には同様の例は見いだせないことから考えても、また?信には「鶴兵」「鶴列」などという鶴にまつわる 独特の用語法が見えることからも(注23)、この松と鶴を結びつけるという発想も、あるいは?信特有のものであるとも考えられる。ということは、 「松に鶴」という組み合わせは、まだ時代一般の普遍的思潮とはなっていなかったということでもある。
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【注釈】
Q『抱朴子』内篇 對俗巻第三
  千歳之鶴、随時而鳴、能登於木。其未千載者、終不集於樹上也。色純白而腦蓋成丹。如此則見、便可知也。然物之老者多智。率皆深藏處邃。故人少有見之耳。按玉策記及昌宇經、不但此二物之壽也。云千歳松柏、四邊枝起、上杪不長。望而視之、有如偃蓋。其中有物、或如青牛。
R『?子山集』巻十二
S『文苑英華』巻百五十九  『詩紀』作仙
21.『?子山集』巻六
22.『?子山集』巻三
23.『?子山集』巻三     擬詠懐之十二
     梯衝已鶴列、冀馬忽雲屯。
  『?子山集』巻十五   周車騎大將軍贈小司空宇文顯墓志銘
     並控鶴兵、倶張戎樂。