中国の図像を読む | |||
第二節 鶴は松に巣をつくる?《3p》 | |||
四、松と鶴 |
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これまでに引いた唐より以前の種種の文獻には、意外なことに鶴に関連して「松」に
ふれた記事がまったく見えない。松も鶴と同様にこの頃にはすでに長寿の象徴であり、神仙思想とも強く結びついている。元来常緑樹であり、
冬の間もその緑を失わずにいることから、むしろ不老の寓意が強かったであろうと思われ、仙伝類の多くには、仙人たちが松の実や松脂(松ヤニ)
などを常食していたという記事や、またそれによって長寿を得たという話が散見する。そうした例を一、ニ挙げよう。
『列仙伝』 |
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このように六朝期すでに松と鶴は共に神仙と長寿という二つの共通するイメージを
持っており、いつこの二つ……松と鶴が一つに結びつけられてもおかしくない状態にあった。いわば伝統的吉祥物「松に鶴」誕生の素地は十分に
形づくられていたといってもよい。 しかし、晉の葛洪の『抱朴子』には、次のような記載も見える。(注K) 千歳之鶴、随時而鳴、能登於木。其未千載者、終不集於樹上也。この『抱朴子』の記事の注意すべき点は、千年の齢を重ねた鶴だけが木に登るのであり、それ以外の通常の鶴たちは樹上には集わないという点である。 更に先にも紹介した『相鶴經』には、(千歳の鶴、時に随いて鳴き、能く木に登る。其の未だ千載ならざる者は、終いに樹上に集わず。) 是以行必依洲嶼、止不集林木。というように(注L)、自然の観察に基づく正確な記述も見られる。いわばこの時代、鶴は決して木に集ったりはしていない。またそれ故、 こうした自然における鶴のイメージが強かった時代には、単に共通する象徴……神仙ないし長寿……からの類推によって松と鶴を結びつけるようなことは、 安易にはなされなかったのであろう。(是を以て行くには必ず洲嶼に依り、止まるに林木に集わず。) このことは詩歌などの文学作品からも確かめることができる。管見の及ぶところ鶴を詠んだ六朝期の詩・賦類には、両者を結びつけたような表現は 存在しない。たとえば『古今図書集成』や『御定歴代賦彙』などには、漢の路喬如の「鶴賦」を筆頭に王粲・曹植(魏)、桓元(晋)、鮑照(宋) などの多くの賦を挙げるが、いずれにも松は見えない。また全漢詩・全三国詩等々の索引によって鶴の詠われている詩作品を検索しても、 松とのつながりを示すような表現は見いだすことはできない。いちいちの作品名を挙げる煩はおかさないが、少なくとも六朝期後半までは鶴はけして 松で羽を休めたりはしていないのである(注M)。 和竟陵王高松賦 齊・王儉(注N)これらの例に見えるように、この時代、松に羽を休めたのは鶴ではなく鳳凰だったのである。この鳳凰と鶴の関係についてもなかなか興味深いものが あるのだが、その詳しい考察は皆さんにお任せしよう。ただ、こんな仮説も成り立つのではないだろうか。龍と同様に霊鳥としての鳳凰の存在も非常に 古い起源を持つ。そこへ遅れて鶴の霊鳥化が起こる。その時、鳳凰が担っていた象徴性のいくぶんかが鶴へと分与される。あるいは、霊鳥という存在が 持つ象徴観念が鳳凰と鶴へ二分化された。その具体的なあらわれの一つが松との結合である。もともと梧桐にやどり、竹の実を喰うといわれる鳳凰は松との 結びつきを弱め、鳥としてよりリアリティーのある鶴へその座を譲り、松との結びつきを強めた鶴はやがて様々な文物に図案かもされ、 人々の間に浸透していった。そんな風にも考えられはしないだろうか。 |
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【注釈】 K『抱朴子』内篇 對俗巻第三。 L 周・履靖校梓『相鶴經』。 M 一応の検索に用いた書物についてその書名を挙げることとする。 十三経(詩経・書経・易経・三礼・春秋三伝・論語・孟子・爾雅・孝経)塩鉄論、 呂氏春秋、賈誼新書、呉越春秋、春秋繁露、孔子家語、説苑、三海経、穆天子伝、 燕丹子、戦国策、淮南子、東観漢記、古列女伝、尚書大伝、商君書、孫子、尉繚子、 呉子、司馬法、逸周書、大戴礼、文子、晏子春秋、越絶書、新序、韓詩外伝、抱朴子、 墨子、荀子、管子、韓非子、老子、荘子、世説新語、 詩作品に関しては、全漢詩、全三国詩、全晋詩、全宋詩、全齊詩、全陳詩、全隋詩、全北周詩、然北齊詩、 全北魏詩、文選、玉臺新詠等の索引を用いた。 N『初學記』巻二十八。 O『鮑氏集』巻六。 P『初學記』巻二十八 木部 松第十三 |