『文藝春秋』生活の中の仏教語
 三蔵法師
 
 孫悟空を主人公とする『西遊記』は、テレビドラマやマンガになるほど日本人にもなじみの深い物語であるが、この『西遊記』に登場する三蔵法師、この「三蔵」というのを、僧侶の名前だろうと思っている方がおられるかもしれないが、これは決して固有名詞などではない。歴史上、三蔵法師は決して『西遊記』の三蔵一人ではない。
 そもそも「蔵」とは、サンスクリット語の「ピタカ」の漢訳語で、仏教に関する様々な文献の「集大成」を意味する。「三」というのは、それらの文献を「経・律・論」の三種に分類したものを言う。そしてこの「経律論」の三蔵を翻訳した高僧のことを三蔵法師と呼ぶのである。
 その三蔵法師の中で最も著名な、そして『西遊記』のモデルともなった玄奘は、唐の貞観三年(六二九)冬に長安を出発し、西域の諸国を巡って印度にまで至り、多くの仏像や教典を携えて長安に戻り、その後多くの訳経を行ったと伝えられている。
 当初、玄奘は何人かの同志と印度への歴遊を望んだが、当時の唐王朝はこれを許さなかった。仲間たちが一人二人と去るなか、当時二十八歳の若き玄奘は、ただ一人禁令を犯してまで印度へ向かったのである。過酷な自然を乗り切る肉体的な強さは言うまでもないことだが、むしろそこまで玄奘を駆り立てた「求法の思い」と強靭な精神力にこそ、われわれは驚嘆を感じずにはいられない。
 そして彼がもたらし。訳出した数々の典籍、それこそはとりもなおさず「三蔵」であったのだが、この玄奘の訳出した「三蔵」こそは、後の人々の求法の道しるべともなったのである。現在も玄奘の訳出した「三蔵」の多くは、大蔵経などによってわれわれも眼にすることができる。言ってみるなら「三蔵法師」という呼び名は、単なる訳経僧にではなく、自らも求法の精神に溢れ、人々にもその依るべき手がかりを示した玄奘にこそ最もふさわしいものであろう。そう考えると「三蔵法師==玄奘」と、人々が思うのも納得できよう。
 玄奘とそして「三蔵」の典籍に込められた求法の精神は、ぜひ後世へと受け継いでゆきたいものである。
(1998年6月号所収)

 
 
 中国唐代を代表する詩人で、日本人にも長恨歌や琵琶行などの歌でなじみの深い白楽天の詩の一節にこんなのがある。
苦ろに空門の法を学びてより
銷し尽くす 平生種々の心
唯だ詩魔のみありて降すこと未だ得ず
風月に逢う毎に一えに間吟す     (愛詠詩)
 仏教に帰依してより日々の苦悩の多くからは自由になり得たが、ただひとつ詩作という魔からだけは、いまだに抜け出せないと言うのである。白楽天という人は、この他にも「酒魔」や「書魔」という表現も詩中に用いているのだが、ほかのどの魔よりもこの「詩魔」に苦しめられたようである。
 白楽天を苦しめた、この「魔」という存在は、それほど仏教では重要な意味を持っている。本来サンスクリット語では「マーラ」といい、これを音写して「魔羅」とも書く。そもそもは自らの命を奪うものを言ったようであるが、同時に悟りに至るための修行を邪魔するもの、煩悩などをも意味する。後世、三魔・四魔・五陰魔などと様々に分類されるがその多くが自らの内にある「魔」を捉えたものである。
 もちろん釈尊の修行を執拗に妨げた魔王「破旬(パーピーヤス)」一族の物語なども存在するが、これとても決して釈尊の外に存在した「魔」ではない。言ってみれば、釈尊を苦しめた魔王一族の存在というのは、釈尊自身の心の中に存在した悟りへの障碍を文学的に表したものなのだろう。いやこの内なる「魔」は、ひとり釈尊のみ存在したのではなく、白楽天にも、そして私たち自身の中にも存在している。そしてこの恐るべき魔王、自らの内なる魔に打ち勝つことは、釈尊にとってさえ容易なことでなかった。それゆえ白楽天も生涯苦しんだのであろう。
 釈尊は魔に勝ち、白楽天は真摯に見つめ戦った。せめて私たちも、自らの内なる魔の存在に気づいていたいものである。
(1998年9月号所収)

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