その八 【鯉に乗ったも仙人たち】仙人の乗り物(その2)巻一 琴高、巻三 子英
『列仙全伝・琴高』 『列仙全伝・子英』 「魚変成竜図」 『韓国文様事典』より 「色絵古伊万里」『日本の文様18』より |
【書き下し】 巻一 琴高、趙の人なり。能く琴を鼓す。宋の康王の舎人爲(た)り。涓・彭(けん・ほう)の術を行う。、冀(き)州・■(たく・琢の王がサンズイ)郡の間に浮遊すること二百餘年。後、■(たく・琢の王がサンズイ)水に入り、龍の子を取る。諸の弟子と期す。「某日當に返るべし。」と。諸の弟子曰く、「齋潔して水の傍に祀を設けて待つ」と。高果して鯉に乘りて來たる。觀る者は萬餘人。留ること一月、復た水に入りて去る。 巻二 子英は、舒郷の人なり。善く水に入りて魚を捕う。赤鯉を得、其の色を愛し、好んで之を池中に養うこと一年。長(たけ)、丈餘たり、遂に角と翼とを生ず。子英怪異し、之を拜み謝す。魚言く、「我來たりて汝を迎う。今日汝と倶に昇天す。」即ち大いに雨ふり、子英魚の背に上り、飛昇して去る。歳歳來歸して、仍りて妻子と同に飲食し、數日にして魚復た來たり之を迎う。此(かく)の如し七十年。故と呉中に子英の祠有りと云(しかいう)。 【語釈】 巻一 琴高 ・趙…戦国時代の国名。河南省南部の地域を領した。 ・康王…宋は殷の微子の子孫で、河南の地を領した国。戦国時代に偃というものが自立して国君となり、隣国の地を侵略して、みずから王と称した。これを康王という(『史記』宋世家) ・舎人…周代の官名で、宮廷の政を掌り、俸禄・財政を取り扱ったという。 ・涓彭之術…涓子の伯陽九仙法や、彭祖の導引行気法をさすか。 ・冀州・■(たく)郡…冀州は河北・山西わたる地域。■(たく)郡は河南を中心に山東・江蘇の一部にも及んでいた郡。■(たく)山という山に因んで■(たく)郡と名づけたという。 ・■(たく)水…江蘇省■(たく)山県の南。 (沢田瑞穂訳『列仙伝・神仙伝』・平凡社の訳注を参照) 巻二 子英 ・舒郷…周代の舒国。安徽省廬江県の西方。子英はこの地の芙蓉湖(射貴湖またじゃ上ともいう)で魚を釣ったと伝えられる。(『太平御覧』六六南徐州記)。 ・呉中…江蘇州呉県。 |
【大意】 巻一 琴高は趙の人である。琴を弾くのが巧みで、宋の康王の舎人であった。涓子や彭祖の術を行いながら、冀州や■(たく)郡のあたりを遊行すること二百余年に及んでいた。後年、■(たく)水で、龍の子を捕えたことがあった。弟子達に「某日にはきっと帰ってくる。」と約束した。弟子達は、「私達は潔斎したうえで、■(たく)水のほとりに祀を設けてお待ちしております」と申し上げた。すると、琴高は約束どおり鯉に乗って帰ってきた。その様は数万人の人々が目撃していた。琴高はその地に一月ほどの間留まって、復た川に入って鯉とともに去っていってしまった。 巻二 子英は舒郷の人である。川に入って魚を捕えることを生業としていた。ある時いつものように漁をしていると、真っ赤な鯉を捕まえた。子英はその鯉の赤い色が大変気に入り、その鯉を池の中で養うようになった。かくして一年ほどたつと、鯉の体長は一丈余りにもなり、なんとしたことか角と翼までもが生えてきたのであった。子英は不思議なこともあるものだと驚き怪しんだが、より一層その赤鯉をあがめたてまつるようになったのだった。ある日、とうとう赤鯉は子英に向かって次のように語りかけるのだった。「私は仙界よりあなたを迎えにやってきたのです。今日こそともに昇天いたしましょう。」と。すると満天にわかにかき曇り、滝のような雨が降り出したのでした。子英はさっそく鯉の背中に上ると、降りしきる雨の中、空の彼方へ飛び去っていったのでした。それからも年に一度は戻ってきて、以前と同じように妻子と飲食をともにするのでした。そして数日すると、来たときと同じようにまた赤鯉が迎えにくるのでした。このようなことが七十年ほど続いたそうです。今でも呉の地には子英をまつった祠が残されているということです。 |
【原文】 巻一 琴高、趙人。能鼓琴。爲宋康王舎人。行涓彭之術、浮遊冀州・■(たく・琢の王がサンズイ)郡間、二百餘年。後入■(たく・琢の王がサンズイ)水、取龍子。與諸弟子期。「某曰當返。」諸弟子日、「齋潔待于水傍設祀」。高果乘鯉而來。觀者萬餘人。留一月、復入水去。 巻二 子英者、舒郷人。善入水捕魚。得赤鯉一、愛其色、好養之池中一年。長丈餘、遂生角與翼。子英怪異、拜謝之。魚言、「我來迎汝。今日與汝倶昇天。」即大雨、子英上魚背、飛昇而去。歳歳來歸、仍與妻子同飲食。數日魚復來迎之。如此七十年。故呉中有子英祠云。 |
【余説】 前回に引き続き、仙人と結びつきの深い動物の例として鯉をとりあげてみた。前回の馬と同様に、鯉も実は龍の変体であるのだ。特にその大きさから「龍の幼体」……子供という捉え方をされる。日本人にお馴染みの鯉のぼりの起源も実は龍が関わってくる。そもそも黄河の上流には龍門という滝があり、この滝を登りきった鯉のみが龍に変身できると伝えられており、この門を称して「登龍門」というのである。(『三秦記』)上図に引いた「魚変成龍図」などはこの故事を絵画化したものである。また琴高の伝記中にも「龍の子」とはっきりと書かれている。また子英の伝記中では、鯉の背に乗って川の中へ入っていくのではなく、大雨の中を天空中に飛び上がったとされている。幼体としての鯉はこの時まさに龍に変身を遂げたのであり、大雨はまさしくその龍が呼んだのである。 |
【図像】 鯉に乗った仙人といえば、まず第一に指を屈するのは琴高であろう。今回も参考として挙げた古伊万里の鉢に描かれた琴高図などは最も代表的なものであろう。その姿は各地の寺社仏閣にも数多く描き彫りこまれてもいる。 龍の幼体としての鯉やその図像については筆者の『中国の図像を読む』第三節の三「鯉は龍の子供だった?」 (http://www2.otani.ac.jp/~gikan/4_1situ3_3.html)を参照のこと。 その九へ |