第二章
『茶経』と『喫茶養生記』の比較

 『茶経』とは、唐の陸羽が著わした茶の専門書のことである。専門書ではあるが、それは茶と人間とが初めて対話した記録なのであった。『茶経』が専門書であったにも関わらず、中国文化史上の古典として迎え入れられた理由として、茶と融和して暮らしていく人間のあり方が、本格的に問いただされたことが挙げられる。『茶経』は一之源(茶のおこり)・二之具(製茶器具)・三之造(製茶法)・四之器(茶器)・五之煮(茶の煮立て方)・六之飲(茶の飲み方)・七之事(茶の資料集)・八之出(茶の産地)・九之略(略式の茶)・十之図(茶経を一幅に書いて掛けておくこと)の一〇部より構成されている。一之・二之・三之・・・という表現は独特のものである。また、唐代の書物は、歴史書・制度の書を除くと、多くはエッセイ風のもので、全体の体系のないものがほとんどである。それに対して、『茶経』の十部構成は、オール・アバウト・ティーの構成をもち、茶の聖典たるにふさわしく、『茶経』以後、これを上回る茶についての体系的著述はしていない。


 一之源は、「茶は南方の嘉木なり」に始まる。千利休の高弟の南方宗啓が利休から聞いた事をまとめた『南方録』の書名はこれに基づく。南方とは中国南部の亜熱帯を指す。また、一之源ではその最後に、高麗人参を挙げて茶と対比しているから、北方の霊草としての人参に対して、南方の茶を掲げたのである。ついで、茶樹の生態を述べ、巴山・峡川(四川省東部から湖北省西部にかけての地域)には「両人合抱(7) 」の茶樹があるという。次に、茶樹の葉・花・実・茎・根について、似た植物との対比によって説明している。ついで、チャを示す漢字、茶・賣・設・茗・舛について述べ、茶字については、荼字から分化したが、その字体はまだ様々で、玄宗皇帝の時(西暦七一三年頃)にできた『開元文字音義』によって「茶」という字体が定まったと言っている。それから、茶樹の生育に適する土壌、茶の種のまき方を述べている。そして茶樹は、野生が上等で、栽培したのは下等とし、「陽崖陰林」のもの、すなわち、日がよく当たる崖の日陰のものが良いと言われる。また、熱が出たり、気鬱になったり、頭痛がしたり、手足が痛む時に茶を四、五杯飲めば、その味は醍醐(乳製品の最高のもの)や甘露(天人の飲物)とはりあうという。しかし、『茶経』の中では、茶の効用を特には宣伝していない。また、茶は「行い精れ、倹の徳のある人の飲物に最もふさわしい」という。喫茶は単に渇きをいやすだけでなく、すぐれた人にふさわしい飲物で、また特に倹の徳を茶の精神をして強調している。倹は倹約で、派手なことと対照的で、侘茶の精神に通じる。


 二之具は製茶用の器具、三之造は製茶法が書かれている。製茶用の器具や製茶法の記述は、最近の製茶技術書を除くと、このような詳細なものはない。また、製茶法の技術は、陸羽が製茶用の器具を説明つきで列挙した上で製茶法を記述しているので、分かり易い。二之具に見える製茶器具は次の通りである。[1](カイ)→茶摘み籠のことで、籠・筥ともいい、竹籠で、茶摘みの人が背負う。茶摘みには女性が多い。[2]竈→かまどで、煙突はなく、上に掛ける釜はつばのあるものを使う。[3]甑 →せいろうで、木製か素焼き製。釜との間には腰帯をつけないで、泥で塗り固める。藍(かご)をすのこにし、蒸気が出始めるとすのこを入れ、蒸し終わると、すのこを取り出す。穀木の三つまたにしたもので、蒸している茶葉をくっつけないようにし、また茶の膏(精分)が流れ出ないようにする。[4]杵臼→杵と臼である。普通のものと変わりない。蒸した茶葉を杵と臼で搗く。[5]規→型で、鉄製、円形・方形・花形などがある。臼で搗いた茶葉をこの型に入れる。鉄製でないと、搗いた茶葉が型にくっついてしまうからである。[6]承→規のうけ台である。石製、又は槐・桑の木で作り、半ば地中に埋め、動揺しないようにしておく。[7](セン)→承の上に広げる絹布で、その上に[5]規を置き、臼で搗いた茶葉を固める。承に茶葉がくっつかないようにする。[8]莉(ハリ)→農夫の使う土ふるいのような格好をし、この土に固めた茶葉を並べて天日で乾燥させる。日本の細い三尺の竹の間に、二尺五寸の部分は竹の皮が方眼に編まれていて、残りの五寸の部分が柄となる。[9](ケイ)→堅い木で作り、乾燥した茶葉に穴をあける。[10]撲→竹製のくしで、乾燥した茶葉にあけた穴に通し、くっつかないようにする。[11]焙(焙炉)→地中に二尺掘り、幅は二尺五寸、長さは一丈。地上に高さ二尺の墻を作り、泥で塗り固める。[12]貫→焙で茶葉を焙る時に使う「くし」である。[13]棚→焙にのせる棚で、二段になっていて、焙で乾燥すると上下をいれかえる。[14]穿→これはでき上がった固形茶(餅茶という)の保存用の「さし」で、竹製、または穀(かじの木)の皮をよって作る。[15]育→餅茶の保存箱。木枠に竹で編み、紙を張っておく。一枚の扉があって、出し入れに使う。中に火桶があり、梅雨の時には熱い灰を入れて餅茶の湿気を取るようになっている。


 三之造においては、まず茶摘みの際の注意を色々述べた上で、製茶法については、<1>蒸す<2>(ツ)く<3>拍く<4>焙る<5>穿でおとす<6>封じこめる、と簡単に述べている。


 四之器では、陸羽が喫茶に用いる茶器を挙げている。四之器で見られる茶器は九之略で「二十四器」と言われている。これらの茶器は、いずれも特殊な器具ではなく、若干の工夫を凝らしただけの簡単なものである。


 五之煮においては、四之器に見える茶器を用い、餅茶の粉末を沸騰した湯の中に投じ、煮立てる時の注意が述べられている。初めに、餅茶を粉末にする前に餅茶を炙る時、火気が十分通らなければならないし、天日で乾燥する時は、餅茶が柔らかくなったら止める。そして熱いうちに紙袋に入れ、精気が逃げないようにし、冷えてから粉末にする。次に火についての注意を述べている。この火は餅茶を炙る時と茶を煮立てる時に湯を沸かす場合と両方に適用できる。火には木炭が一番良い。次に硬い薪が良い。硬い薪とは、桑・槐・櫪の類をいう。木炭は脂臭いものはいけないし、薪は膏の多いものや廃材はいけない。五之煮の最後には、茶の色・香・味について述べている。点てた茶の色は浅い黄色がよい。香は優れていること、味は色々あり、甘いのが設であり、苦いのが舛、啜れば苦く、喉を通せば甘いのが茶であるとし、ここでは「ちゃ」を示す漢字のうち、賣・舛・茶の三字を味の違いによって分けている。


 六之飲では茶の飲み方を述べたところである。まず広い意味の「飲」の意義を述べ、渇きを蕩うには茶をもってす、という。ついで飲茶史上の重要な人物を神農氏(8)以来挙げている。人物を挙げた上で、唐代に至って、「比屋の飲(9)」、すなわち一般庶民まで飲茶が普及した。次には、茶の種類を粗茶・散茶・末茶・餅茶と四分類にする。茶の四分類の次に、当時使われていた排撃すべき茶の出し方を述べている。その一例として、葱・薑・棗や橘の皮、薄訶などに茶を混ぜ、ぐらぐら煮立てて飲む。このような茶の使い方は「溝渠の間の棄て水(10)」なのに、このような習俗が絶えない、と陸羽は慨嘆している。さらに、天然自然がよいのに、人は家・衣食・酒に人工の華美を極めていることを批評し、茶こそ天然の美味とする。


 七之事は、『茶経』著作以前の茶についての史料集で、四十九種の文献を引用し、その中には現在は散逸してしまった書籍も含まれる。『茶経』著作以前の茶についての史料は大部分がここに網羅されている。七之事でもっとも注目すべきことは、陸羽の時代はまだ印刷術は始まっておらず、書籍は写本として伝わっていた。このような時代に陸羽が長安にも行かず、竟陵(湖北省天門市)や湖州(浙江省)等の片田舎にばかりいて、どうしてこのような史料を集めることができたかという問題である。


 八之出においては、陸羽の『茶経』著作当時(八世紀の中頃)の茶の産地が判明した限り、広範かつ詳細に述べられている。すなわち、地方行政の基礎区画である州を単位として、その産する茶を上・次・下・又下(下の下)と四分類に格付けして述べている。


 九之略では、略式の茶のことを述べている。略式とは、二之具や四之器で挙げた製茶道具を省略してよい場合を述べている。


 十之図は、『茶経』の本文を絹に書いて、茶の席に掛けておくべきことを述べているだけである。
以上、『茶経』の内容を詳しく分析してみた。次に、『茶経』に見られる中国の茶の文化が日本でどのように取り入れられたのかを『喫茶養生記』を手がかりにして分析してみたい。
 『喫茶養生記』は栄西が一二一一年に記したものである。上巻「五臓和合門」と下巻「遺除鬼魅門」の二巻から成っている。『茶経』の陸羽の言葉に「茶性儉不宜廣」(茶の本性はつつましやかなもので、開放的な人にはむいていない。)とある。又、「茶宜精行儉徳之人」(茶はきっと、真面目で細々と行き届く倹約家の人にはむいていることだろう。)とも言っている。しかし、栄西の『喫茶養生記』にはどのような人にむいているかではなく、「茶也、末代養生の仙藥、人倫延齢之妙術也。」(茶というものは、末代における養生の仙薬であり、人々の寿命を延ばすに良い方法である。)と述べており、医薬的効果を持つものだという捉え方をしている。「病は気から」と言われるが、栄西の考えは病は茶を飲めば治るというものなのである。また、前述の陸羽が「茶宜精行儉徳之人」と言っていた理由は「茶之爲用、味至寒、爲飲最宜、精行儉徳之人。」(茶の用途だが、味は寒性の極で沈静の薬効があるから、きっと、真面目で細々と行き届く倹約家の人にむいていることだろう。)ということだからである。

薬効がある、すなわち、『茶経』の中でも 『喫茶養生記』と同様に、「茶は薬」として捉えていることが分かる。『茶経』と唯一同じように記されているのは茶を採る時節である。『茶経』には「凡採茶在二月三月四月間。」(凡そ、茶を採む時は、二月三月四月の間に決まっている。)とあるが、『喫茶養生記』では「意者、冬中造、則有百姓煩故也。自此以後、皆立春後造之、進之。」(冬中に造ると、百姓たちは休めず、わずらわしいこととなる。これより後は、立春の後にお茶を造り、献上することとなった。)と記されている。若干、『茶経』と『喫茶養生記』では茶の採る時節は違うことが分かる。そして、付け加えに『茶経』では「雨下不採茶。雖不雨而又有雲不採。不焙。不蒸。用力弱故也。」(雨が降ったら茶を摘まない。雨が降らなくても、曇っていたら、また摘まない。炙ったり、蒸したりもしない。十分な効果が得られないからである。)と茶を採る様についても述べている。

 『喫茶養生記』では『茶経』と比べ、「茶を好む人は病気をしない」ことを述べている。第一にそのことが分かるのは、「其保一期之根源、在養生。其示養生之術計、可安五藏。五藏中、心藏爲王乎。心藏建立之方、喫茶是妙術也。」(永い生涯を送るに肝心なことは、養生することにある。その養生の秘訣は、五臓を健全に維持することである。五臓の中では心臓が最も大切ではないか。心臓を健全にしておく方法は、茶を飲むことが最も良い。)という文章からである。また、心臓が弱い時は、即ち五臓を皆病を生むとも述べている。さらに、「若心藏病時、一切味皆違。食則吐之、動不食萬物。今用茶、則治心藏、爲令無病也。可知心藏有病時、人皮肉色悪、運命依此減也。自國他國調菜味同之、皆以缺苦味乎。但大國喫茶、我國不喫茶。大國人心藏無病、亦長命。」(もし心臓の病気になると、すべての味が調和せず、食べれば吐き、どうかすると何も食べれなくなる。今、茶を用いるのは心臓を弱くして病気の無いようにする為である。心臓の病気にかかっている時は人の皮膚の色つやも悪く、命もこれによって短くなるということである。日本も外国も料理の調味は違わないが、どこでも苦味を欠いているのではあるまいか。ただ 、中国では苦味のある味を飲むが日本では茶を飲まない。それで中国の人は心臓の病気にかかることもなく、長生きをする。)ということも述べている。この文章からは、苦味のあるお茶を飲めば、心臓病になることもなく長命でいられることが理解できる。苦い茶は大抵の人は好まない。しかし、苦い茶から病が治るというのは連想できる。そのようなイメージから治ると言われているのではないかと考えられる。『茶経』では六之飲で、「茶之為飲、発乎神農氏、聞於魯周公。」(茶が飲であるという事は神農氏に発り魯の周公に聞いた。)と述べていることから、薬というよりも後々には飲物だという考えに変わっていることが分かる。茶が広まった様子を「斎有晏嬰、漢有揚雄・司馬相如、呉有韋曜、晉有劉(コン)・張載・遠祖納・謝安・左思之徒、皆飲焉。滂時、浸浴、盛於国朝。両都並荊兪間、以為比屋之飲。」(斎に晏嬰があり、漢に揚雄・司馬相如があり、呉に韋曜があり、晉に劉コン・張載・遠祖納・謝安・左思などの徒があって、皆、茶を飲んだ。時代と共に広まり、世俗に浸潤し、我が唐朝において盛んになった。長安・洛陽の両都及び、荊・兪などの地方では比屋に茶を飲んでいる有様だ。)と述べている。『喫茶養生記』のように、病を治すというような医薬的効果については全く触れていないのである。