【注】
(1)『凌雲集』→平安時代初頭期の弘仁五年(八一四年)に成立した我が国最初の勅選漢詩集。嵯峨天皇の勅により、小野岑守、菅原清公らが782年以降の漢詩23人90首(現存本は24人91首)を集めて編纂した。天皇から位の順番に掲載されている。
(2)『文華秀麗集』→平安時代の弘仁九年(八一八年)に成立した勅撰漢詩集。嵯峨天皇の勅により、藤原冬嗣が担当し、仲雄王、菅原清公叟ともいう。四明象山の人で、16歳で普明寺師蘊について出家。遊学し雪竇・浄慈を経て金山らが編集した。全3巻で28人148首を集録。女性や渤海使節の漢詩も含まれる。
(3)南浦紹明→「なんぽじょうみょう」1235〜1308(嘉禎1〜延慶1)。
まず郷里の建穂寺で学び、15歳のとき鎌倉建長寺の蘭渓道隆に師事。25歳で入宋し、杭州浄慈寺にて虚堂智愚に従って参禅弁道、楊岐派の正脈を携えて1267年(文永4)帰朝した。虚堂の餞別偈に「東海児孫日転多」の句があり、虚堂の法を南浦が日本に広めるのを予言したとして名高い。
(4)虚堂智愚→「きどうちぐ」(1185〜1269)。 臨済宗楊岐派松源派。号は虚堂、息耕に到り、運菴普巖に相見して感得があり、遂にその法嗣となる。さらに諸方の善知識に歴参し、紹定2年(1229)初めて興聖寺に晋住した。その後、報恩・顕孝・瑞巌・延福・宝林・育王・浄慈・径山の諸刹に歴住し、宋の理宗・度宗両朝の帰依を受け、その教化は盛んなるものがあった。我が国の南浦紹明は正元1年(1259年)入宋して虚堂の法を継いだ。咸淳5年示寂。世寿85。『虚堂和尚語録』10巻があり、法雲撰「行状」を付す。
(5)台子→茶の湯で使う、四本柱の棚。風炉・茶碗・茶入れ・水指・柄杓などを飾る。
(6)夢窓疎石→伊勢の人で道号は夢窓といい、法諱は疎石という 臨済宗天龍寺・相国寺の開山国師である。九歳にして得度して天台宗に学び、後、禅宗に帰依。高峰顕日に参じその法を継ぐ。正中二年(1325)後醍醐天皇の勅によって、南禅寺に住し、更に鎌倉の浄智寺、円覚寺に歴住し、甲斐の恵林寺、京都の臨川寺(リンセンジ)を開いた。歴応二年(1339)足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建立すると、開山として招かれ第一祖となり、また、国師は争乱の戦死者のために、尊氏に勧めて全国に安国寺と利生塔を創設した。夢窓は門弟の養成に才能がありその数一万人を超えたといわれる。
(7)両人合抱→ふたり揃って抱き合うこと。
(8)神農氏→伝説上の人物で、現実にいたかどうかは確認されていない。
(9)此屋→「のきなみ」と読む。
(10)溝渠の間の棄て水→給排水のためのみぞの棄て水。