第一章
中国茶はどのようにして日本へ伝わったか
嵯峨天皇は弘仁六年(西暦815年)4月に、韓崎の梵釈寺でお茶を初めてお召し上がりになった。そのお茶がどのようなお茶であったかを知る手がかりとして『凌雲集(1)』に「夏日左大将軍藤冬嗣閑居院」と題する詩がある。その詩に、“詩を吟じ香茗を搗くことを厭わず 興に乗じ偏えに雅弾を聴くに宜し”とある。また、『文華秀麗集(2)』の「夏日左大将軍藤原朝臣閑院納涼」という詩に「提琴搗茗老梧間」(琴を提げて茗を搗く老梧の間)という句がある。以上に挙げた二首の詩に「香茗を搗く」「茗を搗く」とある。この茗というのは茶のことを現すもう一つの漢字である。また、香茗とは香しい茶という意味である。「香茗を搗く」は『茶経』に見える餅茶の製法の中で、蒸した茶葉を杵臼で搗くこと以外に考えられないことから、嵯峨天皇がお召し上がりになったお茶は『茶経』のものと同様に考えられる。
嵯峨・淳和天皇の頃(西暦八一四年頃)、唐風文化の盛行と共に、天皇はじめ貴族層にかなり浸透した喫茶は、国風文化の時代に移行すると、だんだん衰退していったようで、文献にもあまり現れなくなった。その後、わが国において喫茶のことが再び現れるのは、鎌倉時代の初めの一一九一年に栄西禅師が宋代の中国から茶種を持ち帰って背振山(佐賀県)に植えてからのことである。その茶樹が京都府郊外の栂尾(京都市右京区)に移植され、明恵上人に贈られた。そして、栂尾が今日のわが国各地の茶園の基礎となった。鎌倉時代に栄西が留学した天台山(中国の天台)では今も茶園が段々畑になってあちこちに多く、天台雲霧茶又は華頂雲霧茶という名茶の産地になっている。この華頂というのは天台山中の最高峰を華頂峰(一一三八メートル)というからである。天台山の茶のことは、すでに唐代の『茶経』八之出の浙東の条に、台州として下等茶の中に入り、その中に赤城を挙げている。また、天台山の僧たちは茅蓬という小屋に少人数で起居し、茶園を管理し、製茶を行ってきた。したがって、製品も僧侶や貴人などの一部に薬として飲まれたもので、大規模な商品化は無かったようである。
禅宗は栄西によって臨済禅が日本に伝えられ、また、道元も天童寺へ一二二二年に留学して、曹洞禅が伝えられた。曹洞禅は特に、寺内生活の規範として「清規」を重視した。『禅苑清規』巻一、赴茶湯には、飲茶の儀礼が詳細に記述されている。また、栄西を開山とする京都の建仁寺で四月二十日の栄西の生日に行われる「四つ頭の会」は、よく古い禅院茶礼の面影を残している。この清規に見られる禅院の飲茶儀礼は、日本茶道の大成者である千利休が参禅していることによって、日本茶道の確立に大きな貢献を与えている。
また、蘭渓道隆、無学祖元は南宋から日本へ渡来し、臨済禅が普及したが、これらの禅僧が当時の南宋の茶を直接伝えていた。
日本僧の南浦紹明(3)は、一二五九年に入宋し、径山興聖万寿禅寺の虚堂智愚(4)の方を嗣き、径山寺から台子(5)が天龍寺(京都市嵯峨)の夢窓疎石(6)に渡り、点茶に用いられ、茶式を定めたと伝えられることも注目されている。
江戸時代の四代将軍家綱の時、福建省福清県の黄檗山萬福寺から来朝した隠元は、京都郊外の宇治に黄檗山萬福寺を開創した。隠元は煎茶の愛好家であり、座右で用いた宜興罐(江蘇省宜興産の急須)が、今も黄檗山萬福寺に残っている。これは隠元の個人的好みではなく、当時の明末の社会では、文人や僧侶の間に、我が国の煎茶に似た葉茶を用いた文人茶が盛行していたのである。そのことは明の万暦時代(一五七三〜一六二〇年)の茶書である『茶疏』などに明らかである。そして、中国式煎茶が加わる震源地として、日本人の持つ好奇心を刺激し、かつ鎖国とは言え中国とは貿易もあり、新しい文物の影響のあるものだとして時を越え、その風を慕う人たちの出現の波を起こしていったのである。
日本は中国から飲茶文化を遅くとも九世紀前半には受け入れているが、それは一部上流階層のものにしか過ぎなかった。しかし、当時の飲茶は唐風文化の一部としてであったので、遣唐使の停止と共に、日本の国粹文化が台頭すると衰退してしまった。十二世紀末に、栄西は中国から茶種を持ち帰って飲茶を再興し、『喫茶養生記』を著わし、仏寺や武家層にも飲茶を普及させた。その中で、特に禅院においては、飲茶が坐禅の飲料としてだけでなく、仏教行事の中に礼儀として取り入れられ、飲茶の儀礼化はやがて十六世紀後半に至って千利休による茶道成立の一つの道を開くことになった。
明治以後、一般大衆の飲茶は煎茶と番茶と食後の茶として漸次滲透していった。ここ二十年程度では、烏龍茶がその缶詰化の完成とともに急速に普及し、烏龍茶の中国本土、台湾からの輸入量が紅茶の全輸入量を上回るという変化が起こった。一九九六年に日本国内でO−157の感染による被害の増大の予防には飲茶が良いと一部に言われていた。また、一九九六年十一月二十三日の朝日新聞では、日本への外国産緑茶輸入が九六年の一月から九月までに七五四一トンの過去最高となり、一九九五年の年間を上回った。このうち、中国大陸からの輸入が七〇パーセントに達し、その増加の理由として、日本国内の作柄の不良と、缶飲料向けの需要の増大を挙げている。