哈日たちは日本のどんなものが好きなのだろうか。彼らは、とにかく日本のドラマやポップス、タレントが大好きだ。しかも、タレントは、かつてのようにキムタクやノリピーあたりに人気が一極集中するなんてことはなく、反町隆史、竹野内豊、柏原崇、松嶋菜々子、ともさかりえ、深田恭子、宮沢りえなど、日本の若手俳優全般にわたる。常盤貴子も人気のあるタレントの一人で、衛星放送のテレビドラマで台湾の若者から人気が高まった。その常盤貴子が台湾に来たときは大変な騒ぎだった。「台北の渋谷」といわれる若者の街・西門町で開かれたサイン会は千人のファンでごった返し、常盤貴子は「私、日本でもこんなに騒がれたことはなかったわ」と感激した。
数年前のビッグスターと言えば安室奈美恵を筆頭とする小室ファミリーだったが、最近の注目度ナンバーワンは宇多田ヒカルだ。街では宇多田ヒカルの歌がガンガン流れているし、CDショップでは一番いい棚に宇多田ヒカルのCDが陳列されている。
また、お笑い系も人気だ。志村けんは台湾人の笑いのツボにぴったりはまるらしく、以前から世代を超えて人気だった。ただ最近は、とんねるずやウッチャンナンチャンあたりのファンも目立つらしい。
こういった有名どころを始めとして、日本で暮らしている人でも知らない名前も、台湾の若者の口からポンポン飛び出す。台湾の若者の日本の知識は、かなり広くそして正確、かつタイムリーなのである。
なぜ日本の芸能人がもてるのだろうか。十年以上前の「報禁」のころは外国の映画や歌といえば、米国か香港のものだった。香港映画はアクションものが多く、台湾と同じ華人社会であり、感覚が同じだ。ところが、その後に入ってきた日本のテレビドラマや映画は明らかに台湾や香港のものとは異質のものだった。台湾の映画関係者は「俳優に独り言をしゃべらせ、心で思っていることを単刀直入に表現する台湾・香港映画に対し、日本映画は俳優が一言も話さず、視線や風景でそれを語らせる。こういった演出の繊細さが台湾のファンには新鮮だった」と説明した。高層ビル群、伝統文化、新幹線、世界最先端の商品、ファッション、音楽など若者があこがれるものがふんだんに出てくることも日本のテレビドラマの人気が高い理由だ。また、日本人と台湾人のハーフである金城武や、ビビアン・スーら若い俳優や歌手が日本で活躍していることも、日本に対する関心を高めているのである。
台湾には日本製というだけで売れるムードがあり、寺院の境内で売っている駄菓子も日本の商品は人気がある。「値は高いが高品質」の日本製はあこがれの的であり、最近は多くの分野で日本への関心がきわめて高い。台湾では日本での人気がニュース価値の目安になり、「今日の日本の流行は明日の台湾の流行」である。
では、どうして台湾の人々は日本に興味を持つようになったのか。経済的に裕福になった今だから、というそんな上っ面の理由だけではない。五十年に及ぶ日本の統治は日本と台湾の間に深い結び付きをつくり上げたのだ。日本が台湾を去って五十年が過ぎたが、台湾各地で、様々な姿の「日本」を目にすることができる。
台北市のある海鮮料理店ではタイを一匹注文すると、頭はみそ汁に入れてダシにする。表は刺し身にして、裏は焼くのだが、これらはまぎれもない日本料理である。戦前の日本時代の料理法が、今もそのまま受け継がれているのである。また建築物も戦前のものが今も活用されている。政治の中核である台北の総統府は1919年に建てられた旧日本総督府だ。台湾でよく見かける古い洋式建物は、まず日本時代の建造物である。そして、無形の日本文化も残っている。学校で「反日」教育を受けたはずの中年世代の指導者たちが「徳川家康や西郷隆盛から人生を学んでいる」と言うのには驚いた。「日本」精神は他にもあり、高雄市にある短大では、「日本精神のエキスを学生に教えなければ、日本を教えたことにはならない」と言って教育勅語を活用している。
少年少女時代に日本語教育を受けた台湾人にとって、日本語は母語同然になっている。戦後に国民党政権下で「国語」として北京語学習が始まったが、先住民は北京語を覚えず、今も日本語を各族の共通語として利用している。外国で日本語が住民共通の日常語になっているのは台湾だけだろう。短歌を詠んだり、日本語に磨きをかけたいと勉強会を開いている人たちがいるなど、日本語は大切にされている。戦後の不正常な日本と台湾の絆を支えてきたのは、こういった年配の日本語世代であった。台湾の「日本語族」には、「自分たちは日本人と歴史を共有した同じ国民だった」という強い思いがある。
植民地支配それ自体について、武力鎮圧や差別は確かに存在したが、これまで日本国内ではそればかりが強調して伝えられてきた。ところが、台湾人のなかには日本の統治を肯定し感謝する人が少なくないのである。許文龍奇美実業会長はシンポジウムを支援して、「日本は植民地というよりも自分の領土の延長として台湾を考えていたからインフラ建設に膨大な金を突っ込み、一流の人材を派遣したのです。投入した資金がすぐに回収できない医療や教育に力を入れました。台湾社会の基礎はほとんど日本統治時代に建設され、戦後に追加建設したようなものです。当時の日本人に感謝し、彼らの業績を公平に評価すべきでしょう。日本統治がなかったら、台湾人の生活はもっと悪かったと思っています」と述べた。
すべての台湾人が日本に好意を寄せているのではないかと考えたくなるが、実際そうではない。台湾人の対日感情は確かに好意の部分も多いが、一部には根強い反日感情もあり、複雑である。戦争で無事帰還した人たちには何の補償もなく、戦地に向かわせた台湾人に対する思いやりが全くなかったからだ。そして戦後の日本の台湾に対する態度はあまりにも冷たかった。
しかし99年9月に起きた台湾中部の大地震で、日本と台湾との距離がさらに短縮することになった。この地震は、日台関係を前進させる画期的な出来事になったのだ。台湾には、戦後ずっと日本政府は何もしてくれないという不満がくすぶっていたが、今回の日本の援助隊派遣と活躍は日本を大いに見直すことになった。
日本と台湾は国交が途絶えて約30年になるが、民間交流は活発であり、経済界を軸に太い人脈が今も生き続けているのだ。