第三章
その後の見世物小屋
江戸時代からの見世物小屋は明治ぐらいあたりからサーカスとして姿を変えていくのであるが動物の見世物もサーカスの演目の一つとして残っていくのである。
まずサーカスとして始まった事について調べてみた。
インターネットで調べた事によるとサーカスは、西洋人の見世物が日本へ来日してきたのは元治元年(一八六四年)に初めてアメリカのリズリー・サーカスが横浜に来日して、二回目は明治四年(一八七一年)にフランスのスリエ曲馬団が来日し、三回目は明治十九年(一八八六年)にイタリアから来た
チャリネ曲馬団(6)が来日し、猛獣を含むサーカス興行をしているのである。
また、チャリネ曲馬団は明治二十二年(一八八九年)に再度来日して、西洋曲馬といえばチャリネと言わしめるほどの大きな反響を残し、以降はサーカスをチャリネと呼ぶ人もあった。
そして、日本でもサーカスの一座が発足し、まず、日本チャリネ一座が明治三十二年(一八九九年)に登場した。
日本チャリネ一座は、大阪千日前の興行師、山本政七が太夫元(所有者)で、日本チャリネ一座を組織して、東京麹町平河天神社内で興行をしたのである。
その次に登場したのが益井商会興行部であり、明治四十年前後に益井喜蔵が運営をし、明治末から大正にかけて益井商会興行部は、益井サーカス、大竹サーカス、柿岡サーカスといわれるようになり、これらが日本の近代サーカスの基盤を創りあげた。
しかし、これらのサーカスの一座は新しい一座がさらにユニークな芸をするたびに衰退していくのである。
日本チャリネ一座や益井商会興行部などは、曲芸から始まった一座であるが動物見世物から始まったところがあった。
それは、矢野サーカスの前身である矢野巡回動物園である。
矢野巡回動物園は一八九〇年代半ばに、矢野岩太が創立し、香川県を拠点にヤマネコ一匹の見世物から始まったのだった。
阿久根巖(一九八八年)によると、矢野動物園を本格的にするために、矢野岩太は、ライオンを買い付けるためにドイツ行きを決意して神戸まで行くが、中田和平という動物商の紹介で、ベルグマン商会を経て、ハーゲンベック動物園からライオン購入の商談がまとまり渡航しなくても、輸入できるようになり、このライオンによって、矢野巡回動物園は大当たりするのであると言っている。
それは、明治四十年(一九〇七年)の話で、それまでの矢野巡回動物園は、ヒョウや虎などを購入して、本格的な動物園へとしてきたが、ドイツから来たライオンにより全国で人気が出て、当時の人々もライオンをいままで見た人が少なく、誰も疑う人はいなかったのである。
このライオンの人気によって矢野巡回動物園は第二の動物園を組織して、日本列島を二手に分けて巡回していくのである。
第二の動物園の方は、矢野岩太の甥にあたる矢野庄太郎が館主としてまかされ、本部の動物園と区別するために動物館という名称にして、看板の猛獣にキリマンジャロ産のライオンがいたのであったがこの二つの巡回動物園が存在したのは、明治四十二年初めから、四十五年頃までのようだった。
この、明治四十二年から四十五年の間に本部の動物園の方は朝鮮へ渡って興行をしたとされ、第二の動物園の方は長崎の出島などで興行をしたがその他に関する資料が残っていないのである。
そして、大正五年(一九一六年)に矢野巡回動物園のサーカス部門をスタートをさせる。
この矢野巡回動物園のサーカス部門は、矢野サーカスとして活動し、初代団長に第二の動物園の館主であった矢野庄太郎であり、彼を団長に置いたのは、
木下サーカス(7)の団長で庄太郎の兄である木下唯助であった。
その後、矢野巡回動物園は矢野岩太が大正十五年(一九二六年)五月七日にこの世を去ったために木下唯助、矢野庄太郎の長兄の金助が動物園を継ぐことになるが動物の死など不運が重なった矢野巡回動物園は昭和三年(一九二八年)
に解散してしまったのである。
残った矢野サーカスの方は戦後になって徐々に衰退の道を歩み平成八年(一九九六年)に八十年の歴史に幕を下ろした。
このようにサーカスが繁栄と衰退をくり返して現在まで続いているのである。
江戸時代から続いた見世物小屋もこうしてサーカスへと変化していくのには西洋からきた見世物の文化が日本の見世物の文化と融合したということが重要であったのである。
リズリー・サーカスから始まって、スリエ、チャリネといった、西洋の見世物が日本へ来日してきて、見世物がサーカスへと発展していく一方でそれまでの古い形の見世物が衰退していくというメリットもあったが、それは人々の関心がつねに新しい物を求めているため、しかたないのである。
しかし、サーカスはこうした苦労や努力によって、やっと今の形のサーカスを作り上げ、現在でも残っている、木下サーカスやキグレサーカスが今でも活躍していけるのであろう。