第二章

見世物による江戸時代の娯楽

 現在では人々の娯楽はテレビや映画などがあるけども、江戸時代では 芝居(2)錦絵(3)などがありその中でも見世物は芝居よりも手軽で最も人々に親しまれた大衆娯楽のひとつであった。
 当時の見世物は曲芸や 細工見世物(4)があるけども動物見世物とくに舶来鳥獣の見世物が人気があったのである。
 江戸時代に見世物がおもに行われていたのは江戸の両国橋東西と浅草寺、大阪の難波新地と京都の四条河原であって庶民が気軽にあつまる盛り場であった。
とくに盛り場は大道芸人などが芸を見せて、銭がなくても庶民にとってはのんびり一日を楽しむことができる場所である。
 古河三樹(平成五年)によると、江戸時代の民衆にとって、娯楽とは当時「悪所」と呼ばれていた遊女町と芝居町で憂さをはらすことだった。
しかし吉原から夜鷹まで、階層に応じて幅の広かった娼家は別として、かなり金のかかる常設小屋での芝居見物はそう出来るものではない。
 この時代の庶民の娯楽の中心は、見世物や小屋掛け芝居のあつまる 火除地(5)や寺社の門前、河原などにあったのである。
このように見世物は庶民にとって身近で手軽なものであった。
両国 その当時の両国の風景を見てみると両国はすぐににぎわいをみせたのではなく、元禄十六年(一七〇三年)の大火の後、火除地として川沿いに防火線がつくられ、橋手前に広小路ができたのがきっかけであった。寛保二年(一七四二年)両国橋がかけかえられて宝暦ごろから賑わしくなりはじめ、安永、天明のころには見世物小屋が立ちならび、江戸随一のにぎわいを示すようになった。
 さらに両国は近くに浅草寺などの寺社があり人が集まる場所であったがもうひとつ近くに馬喰町の旅人宿が軒をならべ地方から江戸へ出てきた人間がみんなここへ泊まり、すぐ近くの両国へと見物の足をのばすのが江戸見物の手はじめであり、それが両国が繁栄するきっかけであった。
 両国では東と西に分かれており西両国だけは将軍のお膝元であるとみなされて、因果物やイカサマ物などの興行がゆるされなかった。
また、西両国は小屋掛けなどについての条件がうるさく、興行が大がかりになるにしたがって河岸を替えて東両国に集まりだし、文化文政のころには東両国のほうが一層にぎわいを見せるようになったのである。
見世物小屋 次に見世物小屋の風景を見てみると江戸時代の見世物の特徴のひとつは仮小屋で興行されていたことである。
見世物には興行地域を与えられず取払いを命じられるためにいつでも取払える小屋で興行をしなければいけなかったのであった。
しかし、このような興行は、一見不便そうにも思われるが、見物人にとってはこの仮小屋はいかにも庶民的で気軽に出入りできる良さが見世物を江戸時代のいちばん大きな民衆娯楽にした一因でもある。
 見世物の中でも呼び込み口上が民衆の楽しみのひとつであった。
面白おかしくはやしたて、あるいはしんみりと因果を説く、このような口上で人々の足を止め、耳をかたむけさせることにより見世物小屋へと興味をさそい出すのである。
また、見世物小屋の入場料は高くはなく中には入場料をとらない所もあった。
そういった入場料をとらない所は演技中に見物人から銭をもらいにくるのである。
 見世物にはイカサマがつきものであり人の好奇心をひきつけるためには、珍らしいものをごまかしてネタづくりすることがあった。
このイカサマにも種類があって、ひとつは評判の高いほかの見世物をつくりもので真似をするものと、大蛇、河童などをつくってみせるイカサマ物である。
しかし、こうしたイカサマの見世物を見て人々はうまくはめられたと思い、見る方が心得ている場合が多く、イカサマも見世物としての楽しみのひとつであった。
細工見世物 両国などの盛り場以外にも寺社でも開帳の見世物として人を集めていた。
当時の人々はそれほど信仰心が厚かったわけではないが、来世への不安や病苦、災難を退散し富貴を願う現世利益への思いから、この開帳を見に足を運んでいたのである。
しかし、その開帳は造り物でできたもので開帳が盛んになるとさまざまな細工の名人が造り物を作っていた。
たとえ開帳の見世物が造り物であっても庶民にとっては参詣半分、見物半分で開帳を娯楽のひとつとしてにぎわせていたのである。
 このように、江戸時代では娯楽は庶民にとって最高のたのしみであって、イカサマの見世物であっても、造り物の見世物であっても、庶民にしてはそれもまた見世物の醍醐味として受け入れられているのである。
このことから、江戸時代の庶民の気質はいかにおおらかで、イカサマでも受け入れられるぐらいのユーモアが当時の庶民の人々にはあったのである。
また、いかに金をかけずに楽しむかということが庶民にとっては重要であって、盛り場があることによって庶民にしてはそこが一番の娯楽なのである。