『列仙全伝』:研究(一)
第四節 『列仙全伝』の新出依拠資料《17p》

 4-3 『広列仙伝』と『列仙全伝』との本文比較
 『広列仙伝』に収載されている三百余名の伝文すべてについて『列仙全伝』との比較をなし得る時間的余裕が残念ながらなかったため、今回は『広列仙伝』の巻一相当部分七十二名の本伝の比較と、前号で『仙佛奇踪(蹤)』などとの比較で取りあげた六十三名についてだけ 詳細な比較検討を行ってみた。その結果はすべて巻末の表4に掲載したので参照していただきたい。本節ではその結果気づいた二、三の点についてのみ触れることとしたい。
 全体の統計的数字をまず紹介しておこう。今回検討した百十三名中(全体の三分の一)、両者が全く同文およびほぼ同文のもの七十二例(半数以上)、『広列仙伝』に少しく増補・加筆しているもの三十五例、僅かに略したもの五例、全く異なるもの一例である。この数字の上から見るなら明らかに『列仙全伝』は『広列仙伝』に依拠していると言って良いであろう。また『仙佛奇踪(蹤)』の場合などと大きく違うのは、節録するのではなく、むしろ増補・加筆している例が目立つという点である。
 これらのうちそれぞれの具体的例をいくつか挙げてみることにする。

◎ほぼ同文の例
   広列仙伝    列仙全伝
洪■(ガンダレに圭)先生、或曰、
黄帝之臣伶倫也、
得道仙去、姓張氏或曰、堯時巳三千歳矣、
漢仙人衛叔卿、終南絶頂、與數人愽、
其子度問叔卿曰、與愽者爲誰、叔卿曰、
洪■(ガンダレに圭)先生也。
洪■(ガンダレに圭)先生、或曰、
黄帝之臣、伶倫也、
得道仙去、姓張氏、或曰、堯時巳三千歳矣、
漢仙人衛叔卿、終南絶頂、與數人愽、
其子度世問卿曰、與者爲誰、叔卿曰、
洪■(ガンダレに圭)先生輩也。
 「寓→在」「度→度世」「向→同」の三ヶ所の違いだけであり、特に二番目は『列仙全伝』の方が明確に是である。
   広列仙伝    列仙全伝
務光、夏時人、耳長七寸、 好服蒲韭根。
商伐桀、以天下譲於光、光辭曰、
廢上非義也。殺人非仁也。
人犯其難、我享其利、非廉也、
乃負石自沈蓼水已而自匿
後四百餘年、至武丁時、復見、
武丁欲以爲相、遂遊尚父山
務光、夏時人、耳長七寸、好服蒲韭根。
湯伐桀、以天下譲於光、光辭曰、
廢上非義也。殺人非仁也。
人犯其難、我享其利、非廉也、
乃負石自沈蓼水
後四百餘年、至武丁時、復見、
武丁欲以爲相、遂遊尚父山不出。
 「商伐桀→湯伐桀」「沈蓼水已而自匿→沈蓼水」「遂遊尚父山→遂遊尚父山不出」とこれも三ヶ所の異同のみである。「自匿」と「不出」と同内容のことを表現をかえて移動させているのだと思われるが、なかなかに手の込んだ書き換えではある。いずれも『歴世眞仙體道通鑑』などとは異文であり、両者の密接なつながりを窺わせる。
 
◎増補の例
   広列仙伝    列仙全伝
列子、鄭人、名禦冦、問道於關尹子、
復師壷丘子、
九年能御風雨行、隱居鄭、國、
四十年無知者、著書行於世。
 
列子、鄭人、名禦冦、問道於關尹子、
復師壷丘子、
九年能御風而行、隱居鄭國、
四十年無知者、著書行於世、
唐天寶初、冊爲冲虚真人、題其書曰、
冲虚真經、宋景徳四年、敕加至徳二字
 前半部分は全く同文であり、『列仙全伝』の後半「唐天寶初」以下は、他書からの増補であろう。こうした例がいくつか見られるほか、長文の伝記に 増補・加筆の例が多く存在する。
 
◎異文の例
 異文の例はただ一例であるが、これは他の例とは少し事情を異にする。すなわち『広列仙伝』では麻姑と蔡京が別個の伝として立伝されているが、『列仙全伝』では蔡京の伝のみがあって麻姑の伝はその附伝となっているのである。そのため蔡京の伝は増補されているが、麻姑の伝は異文となっているのである。
 
◎小略の例
   広列仙伝    列仙全伝
修羊公、魏人、華陰山石室中、有懸石訪榻、
公臥其上。石盡穿陥、公略不動。
時取黄精食、後以道聞于上
漢景帝禮之、使正王邸中、數歳道不可得、
有詔問公、何日發語、
未幾床上化爲白石羊、白如玉、題脇曰、
修羊公謝天子、後石羊於通靈臺上、
羊後復去、不知所在。
修羊公、魏人、華陰山石室中、有懸石訪榻、
公臥其上。石盡穿陥、公略不動。
時取黄精食、
漢景帝禮至之、使正王邸中、數歳道不可得、
有詔問公、何日發語、
忽化爲白石羊
、白如玉、題脇曰、
修羊公謝天子、後羊於通靈臺、
尋復去。
 「後以道聞于上」の一句省略。「禮之→禮至之」一字増補。「未幾床上化→忽化」に省略。「後眞石羊於通靈上→後置羊於通靈」に簡略化、 ただし『広列仙伝』の「眞」は「置」の誤りか。「羊後復去、不知所在→尋復去」に簡略化。
   広列仙伝    列仙全伝
赤松子、神農時雨師、服氷玉教神農、
能入火不焼、至崑崙山、
常止西王母石室中、隨風雨上下、
炎帝少女追之、亦得仙倶去、
高辛時爲雨師、間遊人間、
漢高帝時、張子房嘗從之遊焉
赤松子、神農時雨師、服氷玉教神農、
能入火不焼、至崑崙山、
常止西王母石室中、隨風雨上下、
炎帝少女追之、亦得仙倶去、
高辛時爲雨師、間遊人間。
 前半は全く同文であるが、『広列仙伝』の末尾「漢高帝」以下の部分が『列仙全伝』では省略されている。
 ちなみに前節で『仙佛奇踪(蹤)』およびその中より摘出された続道蔵本『消揺墟経』が実は『列仙全伝』に依拠した(極論すればノリとハサミによる) ダイジェスト版であるとの説を提示し論証したのだが、今回『広列仙伝』が発見されたことにより、あるいは『列仙全伝』ではなく『広列仙伝』のダイジェストではないか という可能性も出てきたことになる。この点については、次に挙げる西王母の例が答になるであろう。
   広列仙伝    列仙全伝
西王母、姓何氏、
字婉■(女へんに令)一字太虚、
又云龜臺金母
 
 
 
 
居崑崙之圃
■(門がまえに良)風之苑、
玉樓玄臺九層、左帯瑶池、右環翠水、
女五、華林、媚蘭、青娥、瑶姫、玉巵、
 
 
 
 
 
七月七日、 降漢武帝殿、
母進蟠桃七枚於帝、自食其二、
帝欲留核、母曰、此桃非世間所有、
三千年一實耳、
偶東方朔於■(爿に庸)間窺之、
母指曰、此臾巳三偸吾桃矣、
是日命侍女董雙成、吹雲和之笛、
王子登、弾八琅之■(王へんに敖)、
許飛瓊、鼓靈虚之簧、安法興、
歌玄靈之曲、爲武帝壽焉
西王母、即龜臺金母也、
以西華至妙氣、化而生於伊川、
姓■(糸へんに候)(一作何、一作揚)、
諱回、字婉■(女へんに令)一字太虚
配位西方、與東王公、共理二氣、
調成天地、陶鈞萬品、凡上天下地、
女子之登仙得道者、咸所隷焉。
居崑崙之圃
■(門がまえに良)風之苑、
玉樓玄臺九層、左帯瑶池、右環翠水、
女五、華林、媚蘭、青娥、瑶姫、玉巵、
周穆王八駿西巡、乃執白圭玄璧、
謁見西王母、復觴母于瑶池之上、
母爲王謡曰、白雲在天、山陵自出、
道里悠遠、山川間之、
将子無死、尚能復來、
後漢元封元年、降武帝殿、
母進蟠桃七枚於帝、自食其二、
帝欲留核、母曰、此桃非世間所有、
三千年一實耳、
偶東方朔於■(爿に庸)間窺之、
母指曰、此臾巳三偸吾桃矣、
是日命侍女董雙成、吹雲和之笛、
王子登、弾八琅之■(王へんに敖)、
許飛瓊、鼓靈虚之簧、安法興、
歌玄靈之曲、爲武帝壽焉
   消揺墟経
西王母、即龜臺金母也、得(以)西華至妙氣、化而生於伊川、姓■(糸へんに候)(一作以下ナシ)、諱回、字婉■(女へんに令)、(一字太虚、)配位西方、與東王公、共理二氣、調成天地、陶鈞萬品、凡上天下地、女子之登仙(得道)者、咸所隷焉。居崑崙之圃、■(門がまえに良)風之苑、玉樓玄臺九層、左帯瑶池、右環翠水、女五、華林、媚蘭、青娥、瑶姫、玉巵、周穆王八駿西巡、乃執白圭玄璧、謁見西王母、復觴母于瑶池之上、母爲王謡曰、白雲在天、山陵自出、道里悠遠、山川之間(間之)、降(将)子無死、尚能復來、後漢元封元年、降武帝殿、(母)進蟠桃七枚於帝、(自食其二、)帝欲留核、母曰、此桃非世間所有、三千年一實耳、偶東方朔於■(爿に庸)間窺之、母指曰、此臾巳三偸吾桃矣、 是日命侍女董雙成、吹雲和之笛、王子登、弾八琅之■(王へんに敖)、許飛瓊鼓靈虚之簧、安法興、歌玄靈之曲、爲武帝壽焉
(カッコ内の文字が省略)
 この西王母の例を見て明らかなように、『列仙伝全』は『広列仙伝』を大幅に増補・加筆している。それに対し、『消揺墟経』は『列仙全伝』を数文字省略しただけで ほとんどそのまま引用している。まさか『広列仙伝』を元にして独自に増補・加筆した結果、偶然『列仙全伝』と同じになったなどとは考えられない。とするなら前節で述べたように 『消揺墟経』は『列仙全伝』を元に作られたダイジェスト版だという説は変更する必要はないであろう。
 
おわりに

 以上、全体のほぼ三分の一に及ぶ伝記本文を比較した結果では『列仙全伝』は先行する『広列仙伝』を紛本としながらも、個々の伝に多少の増補・加筆などの手を加え、 さらにその立伝数も倍近くに膨らませて作り上げられたものだということになる。当然そうした作業を行ったのは書賈王雲鵬だと言うことになろう。
 また、こうして明・万暦期のいくつかの仙伝類に検討を加えた結果、以下のような継承関係を明らかにできたと信ずる。あるいは今後さらに別種の資料が出現する可能性も 否定できないが、現在まで明らかにできたところを纏めて結びとしたい。
   『広列仙伝』(万暦十一年・西暦一五八三年)
    ↓増補・加筆(附絵像)
   『列仙全伝』(万暦二十八年・西暦一六〇〇年)
    ↓節録
   『仙佛奇踪(蹤)』(万暦三十年・西暦一六〇二年)
    ↓節録(略絵像)
   『消揺墟経』の続道蔵所収(万暦三十五年・西暦一六〇七年)
    ↓節録(附絵像)
   『三才図会』(万暦三十五年〜三十七年頃・西暦一六〇七〜一六〇九年頃)
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