三道宝階伝説における仏像起源説話と

   京都・清涼寺の釈迦像についての考察

四年次生:B 

 京都の嵯峨野に「清涼寺(通称・嵯峨釈迦堂)」という寺がある。その寺の本尊の釈迦如来立像は「三国伝来の釈迦」とか「生身釈迦」とか呼ばれ、古くから深く信仰され続けてきた。実は、この釈迦如来像は、原始経典に登場する「三道宝階伝説」と深い関わりがあるのだ。

 「三道宝階伝説」の中で、この釈迦如来像との関わりが見られるのは、「優填(うてん)王造仏像伝説」のくだりである。この伝説については『増一阿含経』が最も詳しく、『雑阿含経』や「パーリ語仏典」には登場しない。ここでは、『増一阿含経』巻28(大正大蔵経2,705c〜)に見られる、この伝説の要約を載せておこう。

 

「仏が、説法をしに三十三天に行っている間に、仏の姿を久しく見かけなかったことから、落ち込んでいた優王は群臣たちの進言から、仏の像(似姿)を造ることにした。王は、牛頭栴檀(赤栴檀)の香木を用いて、高さ五尺の仏像を造らせた。 一方、優填王の造仏像の話を聞いた波斯匿(はしのく)王も、こちらは金を用いて、同じく五尺の仏像を造らせた。それらが、この世で初めて造られた仏像である。

また、仏が三十三天より地上に降り立った際に、優填王は仏に、造仏像の福徳についてたずねた。それに対する仏の答えは、

『仏像を造ることによって、白黒をはっきり見極める天眼が得られ、常に完璧な肉体を保ち、心に迷いが生じることなく、力は常人に倍し、常に悪趣に堕ちることなく、ついには天上に生まれ天王となり、その名声は広く知れ渡り云々・・・』

というものであった。」

 

 以上が『増一阿含経』に見られる「優填王造仏像伝説」のおおまかな筋である。

 この伝説に隠された意図があるとするならば、それは何だろうか。まず、この伝説から読み取れる「説話としての性質」について考えてみよう。この伝説には、「仏像の起源説話」としての性質と、「造仏像行為の高い功徳性についての根拠譚」としての性質が含まれていると考えられる。特に、「造仏像の功徳の根拠譚」という性質は、伝説自体の成立の原因にもつながる重要な要素だと言えよう。

 「仏像起源説話」として見た時、この伝説が史実に基づくと考えることは、多少無理があると思われる。実際に仏の「像」が造られるようになったのは、おそらく紀元後になってからのことであり、それまでは、仏の姿は、何かしらの象徴(菩提樹や法輪、仏足跡など)で表わされていたと考えるのが、現在では一般的である。したがって、仏在世の時代から仏像が造られていたと考えるのは、やはり難しいだろう。つまり、この「優王造仏像伝説」は、仏像が盛んに造られるようになった後に、その行為の有意性を正統化するために、原始経典の中に流入されたものだと推測できるのである。「パーリ語仏典」の中にこの伝説が見られないことも、そのことの一つの根拠と言えるかもしれない。

 

 伝説自体の史実性は薄いものの、実際に、その伝説に基づいて信仰されていた仏像が、インドに実在していたことは間違い無いようである。そのことは、後にインドに渡った法顕(337?〜422?)や玄奘(600?〜664)の記述によって明らかである。特に玄奘の『大唐西域記』には、前述の、優?王と波斯匿王の発願の仏像の両方につながると思われる、2躯の仏像についての記述が登場する。

 一つは、キョウ賞弥国の項(『西域記巻5』大正51,898a)に「都の場内の大精舎に刻檀像があり、これは?陀衍那(優?)王の所作である。これは、仏が三十三天へ昇った時に、仏を思慕した王が造らせた仏像である云々・・・」と書かれた箇所である。この像は、伝承的にも、優?王の檀造彫刻と一致しているように思われる。

 もう一つは、室羅伐悉底国の項(『西域記巻6』大正51,899b)にある「都城内の給孤独園(祇園)精舎の遺跡の一室に、仏像が残っている。これは、仏が三十三天に昇ったときに、出愛王(優王)が仏像を造ったという話を聞いた勝軍王(波斯匿王)が造らせたものである云々・・・」という記述がそれである。こちらは、波斯匿王の黄金像のことと一致する内容である。

 これらの仏像が、伝説に登場する像そのものであるかどうかは別として、当時の現地においては、そのオリジナル像であると考えられ、信仰されていたということは、決しておかしなことではない。そして、おそらく、本当にそう信じられていたのだろう。

 また、『西域記』には、他にも、まったく別の、ウ陀衍那(優王の所作とされる仏像の記述がある。そちらの方は、「像高二丈余」という記述もあり『増一阿含経』の伝承とは一致しない。さらに、玄奘が帰唐した際にインドから将来した物品の中に「刻檀像一体、高さ尺有五寸、キョウ賞弥国出愛王(優王)が如来を思慕して造らせた像に擬す」というものがあるという記述もある。これらの資料から、当時のインドでは、広い範囲で、同じ(或は類似の)伝説が知られていた上に、件の仏像をモチーフとして、模造(レプリカ)を造るという信仰形態があったとも推測できるのである。

 

 さて、話を清涼寺の『三国伝来の釈迦像』に近づけるために、話題を中国にまで進めよう。「優王の仏像」と中国とが関わる話題として有名なのが、梁の武帝(在位502〜549)による件の仏像の請来の話である。武帝は、511年に優王の仏像と称されるものを請来させている。しかし、どうやら記録的に見て、正確には、その仏像は優王の像の「第二像(レプリカ)」であったというのが本当のところのようだ。玄奘の時代においてもまだ、現地(インド)において、優?王の仏像のオリジナルと考えられている像が見られていることからも、武帝の像はレプリカであったと考えるのが妥当であると思われる。それでも、優王の名に関わる仏像が中国に入ったとされる記録の中で、最も信頼性があるように感じられるものは、この武帝の件だろうと思われる。

 一方で、優王の仏像が、鳩摩羅什(344〜413)親子によって中国にもたらされたという伝承も存在する。羅什の父・鳩摩羅炎が、件の仏像のオリジナルを亀茲国(西域のクチャ)に持ち出し、それを羅什が長安に運んだとする伝説である。清涼寺にある釈迦如来像の縁起絵図の中にも、この伝説のことが描かれていて面白い。その中では、羅什親子が釈迦像を運ぶ際に、昼は仏像を背負い、夜は仏像に背負われながら進んだというような奇跡が描かれている。

 

 さて、いよいよ原始経典の中の伝説と、日本にある仏像とをつなげてみよう。清涼寺の釈迦如来像を日本に持ち込んだのは、東大寺の入宋僧・「然(ちょうねん)である。985年に入宋した「然は、現地で優王の仏像の模刻をさせ、翌年それを日本に持ち帰ったとされている。それが現在でも清涼寺に安置されている釈迦像なのである。

 これらの「三国伝来」の伝承は、不確定にして多説に分岐しており、実際に「インド→中国→日本」と、どの伝承をつなげて考えていいのかも特定されない。当事者の清涼寺の寺伝では、インドから中国へ運んだのは、羅什親子であるということになっているようだ。ただ、実際のところは、羅什説は神話性が多分に含まれているように見えるため、武帝説の方が史実性が強いようにも感じられるのだが、どちらも決定的というわけでは無いのが現状である。しかしその場合、清涼寺釈迦如来像は、羅什説を採るなら「第二像(レプリカ)」、武帝説を採るなら「第三像(レプリカのレプリカ)」という違いが出てくる。さらに、清涼寺には面白い伝承が伝わっている。中国で「然が模刻をさせた際に、真像と模像とをすり替え、真像の方を持ち帰ったとする伝承である。これだと、条件によっては、清涼寺釈迦如来像は、一気に「第一像(オリジナル)」にまで逆のぼることが出来るのである。

 昭和29年の釈迦如来像修理の際に、像の体内から様々な納入物が見つかった。一番話題になったのは絹製の「五臓六腑」が見つかったことだろう。それは、「生身釈迦」の名にふさわしい納入品だと言えよう。そしてその際、同時に、銘記なども見つかり、少なくともこの像は、「然の発願により中国の仏師が造ったものだということがはっきりした。現在の寺伝の立場としては、この釈迦像は「第二像(レプリカ)」だということで落ち着いているようである。しかし、それ以前には、日本においても、清涼寺の釈迦像を「第一像(オリジナル)」であると考える信仰があったのも確かだ。実際に、インド・中国・日本の三国を旅して、その土地土地で信仰され続けてきた、生前の釈尊本人の姿を写した仏像だとして拝まれていたのである。

 造形的に見ても、清涼寺釈迦如来像は、確かに他とは違った魅力を持っていると言えよう。両肩を出さない、同心円状の波紋を持つ薄衣の表現は、明らかにインド・グプタ彫刻の特徴であって、東アジアの仏像としては特殊である。顔つきに関しては、東アジア彫刻の風味が多分に感じられるため、現代人の私たちには、これをインドの彫刻だと見ることは難しいかもしれない。しかし、昔の日本人に「異国・天竺の匂い」を感じさせるには十分な異国情緒だと言えるだろう。現に、日本人たちは、この仏像の魅力に取り憑かれ、鎌倉時代以降、大量の模刻像を造りまくった。いわゆる『清涼寺式釈迦像』である。その数は、日本中で実に百数十躯にも及ぶ。武帝説にのっとるなら、その仏像群は「第四像(レプリカのレプリカのレプリカ)」ということになる。それだけ、遺伝子のように連鎖し続けてまで、「仏の姿」というものは、インド・中国・日本の三国を通じて求められてきたのである。そして、それは、「仏像」というものをこの世に生み出した根源的な欲求だと言えるだろう。

 「優王の仏像」は史実と架空の垣根を越えて、「仏像の起源」と呼べるような精神を含んでいる伝説だと言えるのではないか。

 

 

*参考文献

 ・高田修『仏像の起源』(岩波書店、1994)

 ・佐々木剛三『清涼寺』(中央公論美術出版、2002)


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