第3章
賈鵬芳の論文や林謙三の本、他インターネット上の資料から自分なりに分析してみる。
その前にここで胡弓の歴史に欠かせないのが類似した楽器たちである箏、筑など弦楽器の種類について、また林謙三の『東アジア楽器考』に登場する楽器について、そして賈鵬芳の論文に登場した楽器について少し触れてみよう。漢文資料である「中国楽器図鑑」によると、奚琴は朝鮮族の拉弦楽器であると記されている。箏は弾弦楽器である。瑟は古代弾弦楽器である。楽器ができた頃はそのどれもが非常によく似た形をしていた。それは時代が変わると共に形が変化し、奏法も変わってきたのだ。
最初に胡弓の発生について考えてみる。'胡'の名は西方から流入した事実がある。従って西方から多くの楽器と共に胡弓が伝えられたのではないかという考えがもてる。しかし、胡弓によく似た奚琴が五代十国時代から存在していることを考えると、一概にそうとはいえない。また、弓擦の起源についても未だはっきりしない。インド説、ヨーロッパ説があるが、共にそれほど古いわけではないので、却下される。アラビア説、中央アジア説は起源地としては有力であるが定かではない。弓擦はこれらの地で発生し、中国に伝来したのか、または棒擦から発達した結果なのであろうか。
次に擦弦について考えてみる。擦弦楽器の始祖は、唐の時代の軋箏であるというのが通説になっている。しかしこの軋箏という楽器は詳しく調べてみると独立した楽器ではなく、箏の変種であることがわかる。箏は演奏に棒を用いず、撥弦楽器である。そして、軋箏は演奏に棒を用いるため、擦弦楽器である。林謙三は、軋箏の奏法は奚琴の奏法から発展したものと述べているが、腑に落ちない点がある。中国の学者の説である、軋箏の棒擦の基は筑の演奏法にあったという方がどうも本当らしい。他に賈鵬芳の論文などを参考にすると、中国の最初の擦弦楽器である軋箏は、中国の戦国時代に行われた筑から発展したもので、打弦楽器である筑は、撥弦楽器である箏と擦弦楽器である軋箏への2つの進化をしたと結論することができる。
次に胡弓の原型となった楽器について考察する。楽器の形や構造から見て、また演奏方法から見て、擦弦である奚琴は胡弓の原型であると断定できる。
次にその奚琴という楽器について述べる。この楽器がどこで発生したのか推測してみる。材料は竹であるため、竹がふんだんに見られる南方、あるいは中原地帯で生まれたと考えるのが自然である。そして奚琴は時代と共に発展していき、1つはその姿を残し南音二弦や朝鮮族の奚琴となり、そのままの形で現在に到るまで受け継がれている。そしてもう1つは現在の胡弓へと進化したと考えられるのである。
次に胡弓への進化の過程について述べる。漢の時代には既に多くの'胡'という文字が使用されていたようだ。しかし、'胡弓'という文字は漢代の文献中からは見つかっていない。現在のところ、文献から判断する限りでは、どうも'胡弓'の名称は唐代が初出の年代である。唐代の詩文および宋代初期の史料の中に'胡弓'の名称が見られるようになる。宋代には、弓擦である馬尾胡琴が擦弦楽器として胡弓の文献に初出する。二弦という名称の擦弦楽器が演奏されていたという記述が見つかる。火不思に似た擦弦楽器は番の楽器であることから、胡弓であった可能性もあるといわれている。元代には火不思に似た胡弓が2弦の弓擦楽器の文献へ初出する。明代には現在の胡弓と同様の楽器が描かれた文献が見つかる。清代には現在の胡弓と形状、名称共に一致している。こうして胡弓は現在の形、名称そして奏法に至ったのであろうと考えられる。