第2章

 彼の書いた論文にはいくつかの参考文献が挙げられている。そのひとつである林謙三の『東アジア楽器考』について探ってみる。以下この章では林謙三の考えをまとめた。
中国古代の琴や箏、筑等の弦楽器の母胎として考えられるものが原始的竹管形ツィターである。それは竹が豊富な南方諸地方からアフリカまで、広くの地域に存在している。
西欧人の研究書によると、この楽器は竹皮弦に駒を挿んで緊張し、これを弾奏する。この楽器のやや発育したものは槽に別の弦を張り、その弦の数も次第に増加し、槽の形を次第に変化してついに琴や箏の如き楽器に進化したものと考えられている。
管形ツィターと関連してまず注目すべきは、戦国時代末に知られていた筑である。『説文』に筑、竹曲を以ってする5弦の楽なり。『釋名』に筑、竹を以ってこれを鼓すなり。箏の如くにして細項。『風俗通』に箏、謹んで按ずるに、禮記に5弦筑身なりと。これらを要約すると、筑、箏共に竹身5弦の楽器である。奏法については弦を打撃し、箏は手指で弾じたのである。その後漢代に、筑、箏共に瑟状のものに変じたのである。そして少なくとも戦国時代末には筑は棒状に近かったと、高漸離の故事が示唆する。
そして唐代に現れた天寶楽も管形ツィターに近い楽器であった。これは14弦14柱で形は南方の管形琴に近い。おそらく当時の南蛮の管形ツィターを参酌して、ややこれを改制し、唐楽器として体裁を整えたのが、天寶楽であろうと考えられている。
要するに、中国において、弦楽器の重要な地位を占めるツィター類の形体は管形ツィターと異なって見えるものもあるが、嘗てはそれに類したものであったのである。原始的な筑と箏がこれである。その後唐代に出現した天寶楽や拉琴も、管形ツィターに密接な関係のあるのを認める。
ツィター族の弦楽器として今日広く愛好されている箏の起源を調べてみる。すると、秦と深く関係していることがわかった。そもそもは戦国時代末に西域との接触から伝えられたという説がある。箏に起源に関連している筑という楽器がある。箏、筑ともそのはじめは非常に似たものであった。初期の箏と筑は共に5弦であり、形は相似であった。違う点は奏法である。箏は指で弾くが筑は棒で絃を撃つのだ。戦国時代末期に箏が秦に現れたのに対し、同じ頃、箏に似た5弦の筑は北方の国々に現れていた。従って箏の西方起源説であれば、まず西の秦に5弦の箏が伝わり、これの奏法を一変したものが筑となって北方諸国の間に広まったと考えられる。ともかく箏と瑟とはだいぶ形体の異なるものであったと考えるほうが、箏の西方起源説をとる場合には都合がよいわけである。最初の箏は、箏に似て箏よりは遥か古くから存在する瑟とはだいぶ違ったところがあって然るべきだと思う。箏、筑と瑟の形となったのは漢代以後で、以前は別のものであると認められた説がある。『風俗通』に今并、涼二州の箏、形、瑟の如し。誰の改作するところか知らざるなり。とある。このことから、箏は瑟の形ではないことになる。従って古は箏、筑とも後世の箏のようなものではなく、何か棒状、または竹筒を竪に半分に割ったようなものではなかったかとも思われるのである。『史記』に高漸離、即ち鉛をもって筑中におき、のち進んで近づくことをえたり、筑、秦皇帝をうつ、中らず。とある。この故事から、筑ひいては箏も、漢以前は瑟形よりも棒状のものであったと見る説が適当だと思われる。かく箏が筑同様、棒状か何かの要するに瑟とは違った形のものであれば、戦国末に西域より伝わり、これに箏という別の器名をもつに至ったのも当然と思われるのである。瑟に似た新形の箏でもない古の箏とは、どのようなものを指すかが問題となる。琴も瑟も概して似たものであるから、勿論瑟なし琴なしでもないとすると、箏をどんな形のものに想像すべきか。依然、棒状ツィター、または竹筒を竪半分に割いたようなツィターが思い浮かぶのである。それでは周代には殆んど大成していた細箱状の五弦琴から棒状等の筑が自然に生まれてくるとも思えないのである。魏晋代の変形した箏でも「上円下平」の語のあることは、竹筒を割いた形の名残がないとはいえない。かく箏の起源については種々考えられるが、今日の物的資料だけでは、その直接西方起源か東方起源か、はた南方起源かを確言するのは、差し控えた方が穏当であろうと思う。