第1章

 そこで、この章では胡弓の発生について述べていきたい。その前に胡弓の呼び方について少し触れておくが、胡弓は日本独自の呼び方で、中国では胡琴と呼ぶ。この章では胡弓のことを胡琴と表記する。胡琴の発生とその変遷について述べている論文があったので、以下それらをまとめた。
 中国の擦弦楽器の始祖は、唐の時代の軋箏であるというのが通説になっている。8世紀の詩人・皎然の漢詩によると、軋箏は竹で擦奏したことや弦が絹糸であること等がわかる。『旧唐書』音楽志には、軋箏は独立した楽器としてではなく、箏の変種として記録されている。箏と軌箏との相違点は、擦弦用の棒が加えてあるだけである。この棒の有無によって、楽器の性質が大きく違ってくる。これについて林謙三は、軋箏の奏法は箏から発展したものではなく、奚琴の奏法から発展したもの、そうでなければ他に軋箏の原型が存在した、ということを述べている。唐代の詩人・皎然の漢詩の中で軋箏が登場し、宋代の『楽書』の中で奚琴が登場する。2つの資料の間に擦弦楽器について何も記述が見られないため、この仮説は不合理な部分があるのではないだろうか。軋箏の棒擦の元は筑の演奏法にあったのではないかという説をある学者が提出した。筑は打弦楽器で、戦国時代から行われた。漢墓からも発見され、筑は中国で発生した楽器であると断定していいと思われる。『楽書』によると、筑の形状が箏とほぼ同じであり、箏は指で撥弦、筑は棒で打弦することによって区別されていたことがわかる。箏と筑の出現の年代について中国の音楽学者・楊蔭瀏は、筑が箏に先駆けて出現していたことを示している。箏という字は筑という字から成立した可能性がある。中国の音楽学者・金建民は、次のように述べている。「筑は竹でできており、竹冠に属する字である。箏は筑から変化したものであり、高音ため竹に争をつけ、箏という名称になった。」また、項陽は「筑は演奏する際、テンポの速い曲で連続して違う弦を打つうちに、無意識に擦るという動きが加わり、次第に棒擦が1つの奏法即ち'軋'として確立されていった。」と述べている。王輝華と劉春曙は、馬頭琴について考察した結果、筑→軋箏→蓁→馬頭琴の順に発達したとしている。以上のことを合わせると、中国最初の擦弦楽器・軋箏は、中国の戦国時代に行われた筑から発展したものである。打弦楽器・筑は、撥弦楽器・箏と擦弦楽器・軋箏への2つの進化の道を辿ったと結論することができる。
 唐代のもう1つの擦弦楽器・奚琴について考察すると、楽器の形や構造、演奏方法から見ても、現在の中国胡琴の原型であるといえる。『楽書』では奚琴が現在の胡琴と同じ擦弦楽器であり、2弦であり、弦の間に擦奏の用具を挟んでいたことを示している。擦奏に用いていた物は竹片で、それは弓と違い、容易に弦に挟むことのできるものであった。このようにして、現在の奚琴や、胡琴に受け継がれている特異な構造が生まれたと考えることができる。以上の理由から、奚琴は胡琴の原型であると断じてもよい。また、弓に関して2つの祖があったと考えられている。1つは、棒状の用具から変化したものであり、もう1つは、狩猟用の弓から変化したものであると『楽器資料集』の中で述べられている。前者は弓と弓毛の間に指を入れて、弓毛と棒の間隔を広げながら緊張の度合いを調節して弦を摩擦する。後者は棒の両端を弓毛で引っ張りながら結ぶことによって棒を湾曲させ、その反力によって常に弓毛は緊張した状態におかれている。現在の胡琴の弓は前者の方法である。この説が正しいとすると、奚琴から胡琴に受け継がれたと見られる、弦の間に弓が挟まっている構造は、擦奏の用具に元来棒を用いていたからであるという説を一層確かなものとしてくれるのではないか。中国の音楽学者・楊蔭瀏は、奚琴が唐代に既に存在したとしている。日本の書物に奚琴のことがあるがその書物が成立したのは中国の五代十国時代にあたる。奚琴がこの年代に伝えられたということは、中国において奚琴が発生した年代は、当然それ以前であると推測される。従って、唐代には既に奚琴が存在していた可能性が高い。
 中国の音楽学者たちは、奚琴に関して、唐代から宋代には擦弦楽器と撥弦楽器の2種類があったとみなしている。奚琴の構造について述べると、弦は完全に棹から浮いている。弦を押さえても弦が棹に付くことはなく、弾いても音は長く伸びないので楽器としての機能を果たさない。また、2弦が接近していて1つの弦のみを弾くことは難しい。こうすると、奚琴が撥弦楽器であった可能性は薄いといえる。中国の史料の多くには弓擦以前に棒擦が存在した事実を示している。棒擦という演奏方法が軋箏の影響の下に成立したとすると、奚琴の本体はどこで発生したと考えられるか。『楽書』や『楽学軌範』を見る限り、棹の製作材料として竹を用いている。竹がふんだんに見られる南方あるいは中原地帯で生まれたと考えられる。次に、奚琴の遺制であるとされる南音二弦という楽器について考察すると、南音二弦は弓擦である点を除けば奚琴と全く同じ楽器と考えてもよい。このことから、奚琴の進展の道筋は途中で2分され、1つは姿を残し南音二弦や朝鮮族の奚琴となり、現在に受け継がれている。そしてもう1つは現在の胡琴へと進化したと考えられる。
 漢代、『後漢書』に胡という言葉が見られるのに対し、胡琴という語はこの中には登場しない。唐代の詩文、宋代の史料の中には胡琴の名称が見られる。明代では陳暘の『楽書』に胡琴のようなものが初めて登場する。明代末になると、各地方劇の発展につれて各地方の音楽の特徴をも表現できる胡琴は次第に重要な地位を占めていった。現在、各地方に様々な胡琴類を見ることができるが、その分化はこの頃に始まった。『皇朝礼器図式』の中で胡琴などの記録がある。しかしそれは各地から集められた、見慣れない楽器を清朝の役人が混同して記録したものではないだろうか。皇帝自らが関与した欽定本の奚琴は胡の琴との認識ができた。これ以降、奚琴を原型とする中国の擦弦楽器は胡琴と呼ばれるようになった。奚琴は朝鮮族特定の楽器の名称として、現在にまで残っている。
 以上が賈鵬芳の論文をまとめたものである。