第一章 アメリカとディズニーランド
アメリカでは遊戯やレジャー空間としてのディズニーランドの姿であるというよりは、もっと違った姿をしているように思う。
アメリカ国民の多くはこの場所に特別な、そして信仰にも似た強い想いを抱いているという。
ディズニーランドは、ウォルト・ディズニーによってつくられた。ウォルト・ディズニー(1901〜66年死去)はシカゴに生まれ、ミズリー州の農園で育った。ウォルト・ディズニーはアメリカ性と独自性をもった文化のクリエーターであるといわれている。アメリカ的要素はディズニーランドにすべてといっていいほどふくまれている。ディズニーランドはカルフォニア州アナハイム(ロサンゼルスの南東約40km)に建設され、1955年に完成した。総面積73.7ha(うち30haがテーマパーク)。初期のパンフレットでいうように、大人も子供もともに楽しんで(人々が幸福と知識を見いだす場所となるように)空想と機械技術の枠を尽くした、大規模な娯楽センターである。
しかし単なる娯楽センターというものを越えている。アメリカの人々にとってディズニーランドというものは特別なものである。その理由の一つにここを訪れたアメリカ人は誰でも懐かしさを感じるというところにあるのではないのだろうか。ディズニーランドの物語を貫く第一のテーマは、過去のアメリカに対するノスタルジアというのである。ここを訪れたアメリカ人が懐かしさを感じるのはこのためである。ノスタルジアはディズニーの自伝的要素が園内で最も強く反映されている「メインストリートUSA」に明確にあらわれている。
「メインストリートUSA」というものは、実際に幼い時のウォルト・ディズニーが住んでいた町がモデルになっている。このモデルとなった町はミズリー州にあるマーセリーンという人口二千六百人の小さな町である。ウォルト・ディズニーはそこで四歳から八歳までを過ごした。父親が事業で失敗してからは家計を助けるために幼いウォルト自身も働いていた。そのためにウォルトの少年時代の一番幸せだったころの思い出がこの町にはたくさんつまっているのだろう。ここの町並みは直角に交差する数本の道からなり、真ん中の一本だけ道幅が広く、両側には町役場、郵便局、床屋、雑貨屋などが並んでいた。
アメリカ人にとってはメインストリートというものは文化的な意味を非常にもつものになっている。「メインストリートとは単なる物理的空間ではない。それは、ある心の状態、価値観をともなう場所である。」とアメリカの建築史家スピロ・コストフは言ったという。
アメリカの人々の心象風景としてメインストリートは重要性を帯びている。中西部のメインストリートを、アメリカ文学者や知識人たちが苛立ちと愛着のいりまじった複雑な視線で眺めて
いた一方で、これを「素朴であたたかみのある理想的共同体」として神話化した大勢の人々がいた。ウォルト・ディズニーは今世紀初頭の大きな変化の渦中で育った人物であるが、その精神的ルーツはむしろ十九世紀に属し、社会の激動と不安のなかで牧歌的な過去のアメリカに強い郷愁を覚えた民衆のひとりだった。
田舎の小さな町のメインストリートを平和と良識の砦とみたウォルトであったからこそ、メインストリートを南カリフォルニアの現代の楽園に蘇らせよういう発想が生まれたのであろう。しかも彼はそれにディズニーランド表玄関という栄光の場所を与え、さらには「メインストリートUSA」という極めつけの命名をしたのである。
古き良き時代のメインストリートはこのようにディズニーランドにおいても中心となるものになった。そしてそのメインストリートはさらに田舎町の先の先にある無垢な自然と縁なす田園風景を人々の脳裏に呼びさますもになっている。そしてそれもやはり理想の子供時代の原風景郷愁を感じさせるものになっている。それはアメリカ映画で見るような、野原を裸足で走る少年、一緒跳びはねまわる小犬、魚釣り、キャンプ、野球、愉快ないたずら、心やさしい町の人々、初恋など…。
それはちょうど1910年代から半世紀にわたってアメリカのイラスト画家ノーマン・ロックウェルが雑誌「サタデーイヴニング・ポスト」の表紙やカレンダーに描きつづけた至福の少年時代のイメージであり、文学の中でいえば、ディズニーやロックウェルの祖父の代にあたる作家マーク・トウェインの自伝的小説『トム・ソーヤの冒険』や『ハックルベリーフィンの冒険』に通じるものである。これらの物語の舞台となったミズリー州ハンニバルはトウェインが四歳から十八歳までを過ごしたミシシッピ河畔の小さな町で、ここは今でも「すべてのアメリカ少年の故郷」としてこの国の神話的な場所のひとつになっている。ウェルト・ディズニーも少年のころ、マーク・トウェインの小説を読みふけったほどの大ファンであり、ウェルトにとってトウェインは生涯の英雄であったという。自分が幼年期を過ごした田舎町マーセリーンが偶然にもトムやハック少年の冒険の舞台からそう遠くない場所にあったことも、ディズニーがトウェインに親近感を抱いた大きな要素でもあったかもしれない。後年、ディズニーランドを建設したとき「アメリカ河」を巡航する白い蒸気船の名前を常識的な船名にせず、ずばり「マークトウェイン号」としたのもウォルト・ディズニーがトウェインに寄せる並々ならぬ想いが感じ取れる。またパーク内にも「トムソーヤの冒険」にちなんだアトラクションがあり、その建設物が多く立ち並ぶエリアもある。
また画家であるロックウェルもトウェインに憧れをもった一人の少年であった。トウェインの世界に強い郷愁と憧れを感じた同時代人ウォルトとロックウェルは互いに尊敬と親愛の情を抱いた親友ともよべる間柄であったという。
マーク・トウェイン、ロックウェル、ウォルト・ディズニーの三人は、それぞれの領域でアメリカン・ジャンルともいうべき独自の世界を切り開いた開拓者であるといえる。彼らが憧れ、表現しようとしたのは、ヨーロッパ文化の模倣や追随ではなく、純粋にアメリカの風土に根ざした素朴で民衆的な生き方であった。旧大陸の知的教養や芸術感覚とは別個のアメリカ的なるものを追求した3人の創作のなかで、中核部分をなしたのが「田園の少年時代」の理想像である。この文化の流れはトウェインの小説を源とし、20世紀にはいってロックウェルの絵画に視覚化され、さらにウォルト・ディズニーの手によってディズニーランドという立体空間のなかに再現された。
アメリカ人にとってディズニーランドが特別であるのはここが故郷であるからである。アメリカ大衆が共有する神話的な過去のイメージを具象化し、それらを有形の文化財、記念碑として永久に保存する場所それがディズニーランドである。