第三章

はじめに、映画「フォレストガンプ」のベトナム戦争回想シーンから、この映画におけるベトナム戦争の描かれかたを見ていきたい。
 ダン・テイラーは「Now, you listen to me. We all have a destiny. Nothing just happens, it's all part of a plan. I should have died out there with my men! But now. I'm nothing but a goddamned cripple! A legless freak. Look! Look! Look at me! Do you see that? Do you know what it's like not to be able to use your legs? Did you hear what I said? You cheated me. I had a destiny. I was supposed to die in the field! With honor! That was my destiny! And you cheated me out of it! You understand what I'm saying. Gump? This wasn't supposed to happen. Not to me. I had a destiny. I was Lieutenant Dan Tyler. Look at me. What am I gonna do now? What am I gonna do now?」 (人間には持って生まれた運命ってものがある。最初から決められているんだ。部下と戦死すべきだったのに俺のこのザマを見ろ! 両脚がないんだぞよく見ろ! もう二度と歩けないんだぞ。貴様に分かるか? 貴様のせいだ。俺は戦場で名誉の戦死を遂げるはずだった。そういう運命を貴様がぶち壊したんだ! こんなことになるはずじゃなかった。俺の運命じゃない。俺はダン・テイラー中尉だった。俺を見ろ。どう生きればいい? どう生きれば・・・)と、命の恩人とも言えるガンプにこのような怒りをぶちまける。ダンはベトナム戦争で両脚を失う悲劇に見舞われ、人生に絶望してしまう。しかし、ガンプに励まされて立ち直り、最後にはアジア系の女性との結婚を果たす。ダンは両脚切断されてもこれから生きていかなくてはならなかった。戦争に負け、身も心も傷ついたアメリカ兵士はダンのほかにもたくさんいたことだろう。
 実際に当時の世論調査の結果をみてみよう。1973年の暮れ、ギャラップ世論調査 は次のような質問をした。「1974年という年は、アメリカの力が世界のなかで強まるだろうか、それとも反対に弱まるだろうか」答は「強まる」29%、「弱まる」50%で、とくに大学出身者は61%が「弱まる」という見通しを示していた。ギャラップは同じ質問を同時にブラジル、インド、ノルウェー、フランス、イギリス、ウルグアイでも行ったが、アメリカほど「弱まる」と答えた比率が高い国はなかった。このことは、アメリカ人自身がいかに誇りを見失い、心に深い傷を受けたかを物語っている。しかもその傷はすぐ癒されるどころか、時間の経過とともに深まる傾向さえみせていったのである。巨額の戦争遂行費用はアメリカ経済に大きくのしかかり、ついにアメリカは1971年に金とドルの兌換を停止し、その後の二度のオイルショックによってアメリカ経済はさらに窮地に立たされることになった。また、ニクソン大統領の退陣のきっかけとなったウォーターゲイト事件は、退職大統領の選挙違反という前代未聞の不祥事であり、ベトナム戦争中の枯葉剤の使用やソンミ村虐殺事件などとともに、アメリカの対外的威信に決定的な打撃を与えた。そのうえ、ベトナム戦争に送られたアメリカ兵の平均年齢が19歳だったという事実は、これから世の中を担っていくはずの世代に虚無感や自身喪失といった大きな精神的傷痕を残すことになった。ベトナム人を救いに行ったはずなのに、なぜ自分たちは決して感謝されず、世界中の非難を浴びなければならないのか、そしてそもそもこの戦争は何のためであり、なぜ自国の繁栄を犠牲にしなくてはならなかったのかという問題と長らくアメリカ国民は自問自答することになる。これら一連の現象は、アメリカがいわばベトナム後遺症から容易に抜け出せなかった様子を物語っている。
 ガンプがいつまでも思いを寄せていたジェニーは反戦委員会長と同棲していた。ジェニーは反戦運動に積極的に参加していたと思われる。猿谷要(1991)によると、ベトナム戦争については、反戦運動の高まりも歴史の1ページを飾るものとしてあげておかなければならない。ベトナム武力介入即時中止を訴えた約300人の著名人による大統領あて公開状を、1965年3月に「ニューヨーク・タイムズ」紙が公表し、以降ベトナム派遣の危険にさらされている若者たちを中心に、反戦運動はしだいに高揚する。ギャラップの調査では、初め少なかった戦争反対派が伸び、賛成派に追いついてから追い越す現象が起ったのは、1967年秋から暮れかけてである、といっている。反戦運動の盛り上がりの旗頭となったのは、やはり学生たちであった。学生たちにとってベトナム戦争は、50年代の遺産を一気に叩ける恰好の攻撃目標だった。この戦争は、軍事大国としてのアメリカの姿を象徴していただけでなく、反共思想という50年代的で偏狭な価値観を体現していたからである。こうしてベトナム戦争は、一義的にはアメリカと南ベトナム解放勢力との戦いだったとはいえ、アメリカ国内における戦争支持派と反対派との間の内なる戦いとしての側面をもつに至った。
 次に、アメリカにおける人種問題が関わりを見せる。反戦デモに参加している黒人にガンプはこんな事をいわれる。「We are here to offer protection and help for all of those who need our help. Because we, the Black Panthers, are against the war in Vietnam. Yes, we are against any war where black soldiers are sent to the front line. to die for a country that hates them Yes. we are against any war where black soldiers go to fight and come to be brutalized and killed in their own communities as they sleep in their beds at night.Yes, we are against all these racists and imper ial dog acts.」(我々は同士全員に助けの手を差し伸べる。我々ブラックパンサーは戦争反対だ。黒人を憎んでる国のためになぜ黒人が戦場に行くんだ? 前線で戦ってやっと国へ戻れば自分の家で寝てて殺されるんだ)と。反戦運動を契機として政府に対するさまざまな要求が噴出し、アメリカ国内が多様な権利要求を掲げる集団へと分裂していった様子は、黒人たちの運動に現れている。黒人たちにとっても、ベトナム戦争は忌わしい存在だった。貧困から逃れるため、黒人の中には軍隊に入隊した者が多かったが、そうした黒人兵たちは、自分たちを差別する祖国の自由のために前線に送られるという皮肉な運命を辿ったのである。
反戦運動の盛り上がりとともに、黒人をめぐる状況が一向に改善されないことに業を煮やした人々の間からは、体制批判を掲げた急進的な「ブラック・パワー」と呼ばれる動きが出てきた。マルコムXらに代表されるブラック・ムスリム(黒人回教徒団)や、黒人武装組織のブラック・パンサーなどはその代表的存在だった。公民権運動が、憲法に保障された権利の着実な履行を求める、いわば体制内改革を目指していたのに対し、ブラック・パワーの新たな運動は、反体制的な対決姿勢を前面に押し出していた。そして、60年代後半に大都市の黒人地区を中心に吹き荒れた暴動は、非暴力を掲げた公民権運動に代わって力ずくで白人社会と対決しようとするブラック・パワーの台頭を物語っていた。しかし、ブラック・パワーの陣営は、黒人の方から白人社会を見限ってキリスト教ではなくイスラム教に救いを求めたり、黒人が自ら地域社会の権力を握ることを志向するなど、主張はまちまちで、決して一枚岩ではなかった。その意味からすれば、ここに至って黒人たちの運動の路線は大きく分裂することになったといえるのである。
 かつてアメリカ社会で使われていたのが「人種のるつぼ」(melting pot)という考え方だった。いろいろな人種・民族の人たちが集まってきて、アメリカ人として同化するために溶鉱炉に投げ込まれ、融けて流れて主流の中に合体するのだ。主流の本体といわれるものが「ワスプ」(WASP,White Anglo-Saxon Protestant)、すなわち人種は白人、民族はアングロ・サクソン、宗教はプロテスタントなのである。WASPでない人たちはみなWASPを見習い、WASPのコピーになることを望んだ。そうしないと、いつまでも偏見や差別の対象とされかねないからだった。しかし、60年代以降、少数派も平等の権利を主張するようになって、「サラダ・ボウル」(salad bowl)とか「モザイク」(mosaic)という考え方が広まってきた。対等の存在ならば、何もWASPだけをモデルにして自分の主体性を失うべきではない、と考えるようになったのだ。鉢のなかに入っているサラダは、最後までレタスはレタスであり、トマトはトマト、パセリはパセリでありながら、全体のハーモニーを作り上げているのである。その後、それぞれの文化の主体性を強調して「文化多元論」(cultural pluralism)という表現が生まれ、80年代末からはさらに一歩進めて、相互に文化の異質性を認め合いながら、差別のない社会をめざそうとする「多(元)文化主義」(multiculturalism)という考え方が定着するようになった。異文化が共存するというだけではなく、より積極的に公共政策のなかでも生かされるべきだ、と考えるようになったのである。
 映画フォレストガンプは、こうした流れの中で1994年に撮られたものであり、20世紀後半のアメリカの歩みとは何だったのかを改めて提起している。
鈴木透(1998)は、映画「フォレストガンプ」は埋もれた過去を通じて現代を相対化し、過去の人々の教訓を分裂の危機の時代の人々に伝えるという路線をさらに発展させるべく、アメリカ社会に受け入れられる素地がある。ガンプの生き方は60年代的価値観の是非をめぐって社会が大きく揺れ動いてきた激動のアメリカ史を背景に、多様性とマイノリティーに対する寛容さを保ちつつ、60年代的価値観の限界を超える道を示唆している。これは正しく、分裂の危機にある現代アメリカ社会にとって手本である、としている。
 さまざまな人種の集まりであるアメリカという超大国では、まだなお人種差別は深刻な問題として残っている。肌の色が違うからといって全て解りあえない訳ではなく、大切なのは、人種・地位などの人間と人間の間に線を引くようなものを超える、心と心のつきあいかただということをガンプの生き方から学んだように思う。さまざまな人種の集まりであるからこそ、どんな考えの人も受け入れられるガンプのような人間がこれから求められる。
 アメリカ人像を捉えようとするが、「アメリカ人はこうである」と一概に言えない。社会の周縁に追いやられてきたガンプのような存在を手本にしようとする意識の高い面が見られるところもあるが、宮本倫好(1995)によると、「1972年、パン・アメリカンのジャンボジェット機でハイジャック未遂事件が起こった。犯人の南ベトナム青年は、アメリカ軍の北ベトナム爆撃に抗議して、ジャンボをハノイに飛ばせようとはかったものの、アメリカ人の機長と乗客にうまく取り押さえられてしまった。問題はその後だった。すでにぐったりしていた犯人に対し、『撃ち殺してしまえ』という声が上がり、乗客のアメリカ人がピストルを腹に6発撃ち込んで、このベトナム人を即死させてしまったのだ。サイゴンで、このニュースの反応をできるだけ探ってみた。私の知る限り、アメリカ人は一様に『ハイジャックを見事防いだ』という満足感だけ。敬虔なカトリック教徒だという機長の妻は『夫の見事な処置に心から満足し、尊敬する』という談話を本国で発表していた。要するに、『すでに抵抗力を失った犯人を殺す必要はなかった』という反省がまったく欠落しているのだ。あるのは『ハイジャック犯は悪者。だから殺されて当たり前。その悪者を殺した人は正義の士』という極めて単純明解な論理だけだった。(P110)」という一面もある。私はアメリカ人の怖さはここにあると考える。アメリカ同時多発テロ事件で、ニューヨークの世界貿易センタービルの崩壊によるおびただしい瓦礫の中に埋もれて亡くなった人の命と、報復としてアフガニスタンに爆弾を落とし、それによって亡くなった人の命の重さは平等でなくてはならないということに気付いていないのだ。「悪者と決めたものには殺しても正義である」という感覚は理解できない。どこかでアメリカ人はアメリカ合衆国が常に一番でないといけないと思っているようにみえる。世界唯一の超大国であるアメリカは、さまざまな人種・民族が集まる場所であり、戦争にも積極的であるから、その分問題も多く抱えている。アメリカは力で全てを制しようとするが、反戦運動のように自分たちの過ちに気付き、自分たちで運動を起こす力も持ち合わせている。だが今の現状は、「武力には武力をもって制する」という結果である。このように戦争に積極的なのは私たち日本人には理解しがたい考えである。なぜ私たちに理解しがたいかというと、今日本が平和だからだろう。もし大事な人が誰かに命を奪われたとしたら、私はその命を奪った人を憎んでしまう。この感情が大きくなったものが今のアメリカではないだろうか。武力には武力でかえすのではなく、武力では何も解決せず、何も生まれないことを忘れてはいけない。
 国が何を優先して選択するべきかが、今問われる時代に入っているのだ。正しい事はやりとげなくてはならない。たとえそれが何年かかったとしても。