第二章

ガンプが大学卒業後従軍したベトナム戦争が、どのようなものであったのか見ていきたい。ベトナム戦争は本来アジアの戦争である。1960年初頭から1975年4月30日までベトナムの地で繰り広げられた、南ベトナムと北ベトナムとの武力衝突をいう。ベトナムを植民地化していたフランスと、独立をめざすベトナム人との戦いだった。しかし、戦争の実態は南ベトナムを支援したアメリカと北ベトナムを支援したソ連、中国との政治戦略的な戦争といえる。アメリカは西部開拓が太平洋岸まで達した後、アメリカはアジアへの関心を高めていく。そして、第二次世界大戦を通じて名実とともに世界の最強国となったアメリカは、みずからがコントロールできる好ましい秩序を世界全体に作り上げることを、対外政策の基本的な目標とするにいたったのである。 
 アメリカはジュネーブ協定で、ベトナム国土を2分する北緯17度線で軍事境界線を設定した。これは、全世界に共産圏との間の「縄張り」が明確になったことを意味していた。共産主義、とくに朝鮮戦争の体験を経て、アメリカにとっては許すべからざる敵と認識されるようになった中国の、これ以上の勢力拡大を阻止する防衛線だった。
 アメリカのベトナムに対する介入がうまくいっていないことが、アメリカでも広く自覚されるようになった1960年代の後半から、なぜアメリカはこのような事態に落ち込んでしまったのかというさまざまな議論がなされるようになった。
 まず、泥沼論として、アメリカの政策決定者は、それぞれの時期の南ベトナムの危機に対して、「従来よりも一歩出た」戦争拡大策を、そうした段階的な戦争のエスカレーションが長期的にはどのような結果を引き起こすのかを考慮することなしに採用してきた。そのような「一歩」の積み重ねの結果、アメリカはいわば知らず知らずのうちにベトナムの泥沼にはまりこんでしまったという議論であった。
 この泥沼論に対して、1970年代にはいって、アメリカの政策決定者、とくに歴代の大統領は、それぞれの時期にこの程度の措置をとっただけでは、ベトナムの危機の根本的な打開などできず、事態をアメリカにとってもベトナムの革命勢力にとっても行きづまりにするのが精一杯であることをよく自覚しながら、政策決定を行なっていたとする、いわば自覚された行きづまり論というべき議論が登場した。
 ベトナム戦争では、米軍が小火器による白兵戦という、みずからの優位性をあまり発揮しようのない、敵の土俵での戦闘をしいられていた。ベトナム戦争での米軍兵士の戦死の原因に関する統計では、大型火器の破片による戦死者は36%にすぎず、これにかわって小火器による戦死者が51%、罠や地雷による戦死者が11%を占めているのである。米軍の部隊が、平野部でゲリラを追い回す平定作戦(人口の密集した地域を確保して、そこにはりめぐらされた解放戦線の組織網をシラミつぶしにする作戦)に従事していると、その平野を見下ろす山岳部の要衝に革命側の主力部隊が進出してくるので、その高地の奪回に行く。高地の争奪戦をしている間に、平野部でのゲリラ活動が強化されるので、せっかく奪還した高地を放棄してまた平野部に戻らざるをえない。こうしたことを繰り返す間に、米兵の死者数だけは確実に増大していく。これが、南ベトナムの戦場での米軍の戦いだった。
 ベトナム戦争におけるアメリカの目標が、「自由世界の砦」としての南ベトナムの維持であったことは明確である。1975年に、南ベトナム=ベトナム共和国の崩壊という形で戦争が終結したということは、アメリカがこの目標を達成することができず、戦争はアメリカの完全な敗北に終わったことを意味している。
 一時アメリカでは、このアメリカにとっての敗北、ないしはぶざまな失敗に終わった戦争によって生まれたフラストレーションを、ベトナム帰還兵にむける傾向があり、帰還兵は負け戦を戦った「腰抜け」か、そうでなければ「殺人鬼」という白眼視を受けた。このような傾向に対する反発から、1980年代に入って映画などで強調されるようになったのは、戦争そのものは失敗だったかもしれないが、戦場ではアメリカの若者はよく戦ったのだというメッセージであった。
 アメリカはかつて植民地から独立し、そのことを誇りにした国でありながら、ベトナムの共産化を恐れるあまり、独立をめざすナショナリズムの高揚を見誤ったというしかないだろう。アメリカの世論調査で、ベトナム派兵は誤りであったとする意見が50%をこえたのは、1968年のテト攻勢後のことであった。そして、ベトナム戦争が終結して10年を経た1985年4月の世論調査でも、ベトナム戦争を誤りと見なす回答は63%にたっしている。ベトナム戦争におけるアメリカの敗北が、米国の世論をアメリカの対外的な軍事力の行使に対してかなり慎重なものにかえたことは疑いがない。