序論

 王佐の才とは、王を補佐するのに相応しい才能を持つ人物のことをいう。
後漢〜三国時代では、後漢の司徒・王允が「一日千里、王佐の才」と謳われていた。また、曹操の軍師である荀ケが若い頃から王佐の才有りと言われていたことは有名な話である。
 王の力だけでも天下を平定することができないのは然りである。
後の世にまで多大な影響を与えた魏の武帝・曹操。彼は最強の軍人であったと共に、優れた為政者でもあったが、大陸の半分を手中に収めることができたのは、尚書令・荀ケのおかげだと言っても過言ではない。全てにおいて優れていた曹操でさえ荀ケ以下、有能な人材をなくしては魏という大国の基盤を作ることはできなかった。
三国志、残りの二人の英雄、劉備と孫権は、曹操に比べるとどうしても見劣りしてしまう。それでも三国の一画を担うまでに成長することができたのは、蜀の諸葛亮孔明、呉の周瑜公瑾という二人の天才の存在が大きい。しかし彼らは「天才」とは称されても「王佐の才有り」と言われることはほとんどなかったのではないだろうか。
  私はあえて「三国志演義」は無視し、正史「三国志」だけを参考にして、実際の孔明像、周瑜像を見、一見相反する二人の天才が、劉備と孫権というそれぞれの王を補佐するに相応しい人物であったことを証明したい。その上で補佐方法の違いを見ていこうと思う。