第2章 王佐の才・周瑜
 もう一人の王佐の才は、周瑜。
 まず初めに、彼はどのような人物だったのか。周瑜、字は公瑾。盧江郡舒県の人。正史「三国志」にも「瑜、長ずるに及び、姿貌あり」と書かれるほどの美丈夫で、人々からは「美周郎」と呼ばれ、親しまれた。「三国志演義」の影響で、世間では周瑜に対するイメージは短気で激しやすく孔明にコンプレックスを抱いている、まるで孔明の引き立て役と認識している人もまだまだ多いのではないかと思う。しかし実際の周瑜は「瑜の性格はからりとしていて度量が広く、大抵の人に愛された」と陳寿は評価している。大抵の人というのが気になる所だが、彼は孫堅時代からの古参の老将軍・程普とだけは折が合わなかったようだ。また、音楽に通じ、宴会の席で酒が入っていても、演奏に間違いがあれば必ずそちらを振り返ったという。文武両道に優れ、芸をたしなむ美貌の将軍。そんな肩書きをもつ彼は、三国志の人物の中で、曹操と並ぶ完璧な人物と言えるだろう。
 ここで少し周瑜の王佐の才の片鱗を覗いてみる。周瑜は幼い頃から孫権の兄、孫策と「断金の契り」と言われるほど仲が良く、義兄弟の契りを結んでいた。孫策が呉郡を攻略する際に合流し、以来孫家に仕えることとなる。孫策は劉(ヨウ)、王朗、厳白虎ら連合軍を倒し、瞬く間に呉郡を平定した。破竹の勢いで孫呉の地盤を固めていった孫策だが、曹操が官渡で袁紹と戦っているすきに中原へ攻めいろうとした矢先、呉郡太守・許貢の食客により暗殺されてしまう。26歳という、あまりにも早すぎる死であった。孫策の跡を継いだのが、弱冠19歳の弟、孫権だった。若いうえに、まだ低い官位しか持たない孫権に、真剣に忠誠を誓おうとする臣は少なかった。そんな中、周瑜だけが諸将に先んじて臣下の礼を示し、魯粛ら有能な人物を推挙して、天下に広く人材を集めるように進言したりした。孫策を失った周瑜の心境を語る文献は残されていないが、無二の親友であり、義兄を失った周瑜は無念痛恨だったに違いない。孫策なら天下を取れると思っていたとすれば、なおさらである。これゆえ、後継の孫権を助けていくことが自分の生涯の責務だと粉骨砕身し、孫権にも「いつまでも沈んでいれば孫策殿に笑われますよ」という具合に諌めたのだろう。これによって孫権は励まされ、だんだんと呉主としての頭角を現していく。次第に周りの豪族からも一目置かれるようになって、孫堅から孫策、孫策から孫権へと受け継がれた土地は、代を重ねるごとに豪壮になっていった。
 死の床において孫策は弟に、「軍を率いて城を攻め落とすことならお前は私に適わないだろう。しかし、人をよく用い、国を安泰に治めることなら、私はお前に適わない」と言っている。孫堅、孫策と比べて華々しさにかけ、どこか凡庸な印象のある孫権だが、その隠れた才能を見つけ出したのが孫策であり、引き出したのが周瑜である。また孫策は「補佐役として、内政は張昭に、外交軍事は周瑜に頼れ」とも遺言している。その言葉通り、孫権は周瑜を頼り、兄のように慕ったという。こう見てみると、周瑜は内政にも秀で、心情でも孫権をよく助けていたが、彼の活躍はこれだけに止まらない。孫権は確かに内政には非凡な才能を示したが、戦となると、まだ不慣れで、未熟だった。それでも一大勢力を築いたとなると、当然外敵からの侵略に脅かされることとなる。
 孫権軍にとって最大の戦が、対曹操軍との赤壁の戦いだろう。207年、北を制圧した曹操は南征の準備に取り掛かり、翌年の9月、荊州を降伏させ、その水軍を吸収してさらに南下してきた。孫権の幕内は来る曹操の大船団を目前に、降伏派と開戦派に分かれていた。降伏派筆頭の張昭らは「曹操は残忍にして欲深い男。その上、天子の命を奉じる形を取っているので、これに抗戦すればこちらが逆賊となりかねない。また、曹操は荊州の水軍も手に入れ、水陸を共に攻められれば、頼みの長江も役に立たない」つまり、勝つ見込みがないと主張する。対する徹底抗戦派の筆頭が、周瑜と魯粛だった。その時の周瑜の演説の要約を寺尾善雄(1998)から引いてみる。「曹操は漢の丞相を自称していますが、実の賊なのですから、名分論は当てはまりません。わが君の神の如き才知武勇と、父君および兄君ご両所の武勲によって築き上げたこの呉です。広さは数千里四方、物産は豊か、兵また精鋭、漢室のために賊を除き得る実力を十二分に備えております。曹操に降るなど、卑怯者のすることです。そもそも曹操、北方が安定して内憂が無いのなら、持久戦に持ち込んで、わが軍と水戦を行うことも可能ですが、いまや北方は平穏ではありません。馬超や韓遂が叛乱を起こしているからです。その上、馬を捨てて船に乗って戦うことは、北方人にとっては苦手なのです。次に今や厳寒の候、馬の飼料も不足しておりましょう。北方の乾燥した土地から来た兵たちは、南方の湿潤な気候風土に馴れていないため、必ずや疫病にかかるでありましょうし、長い戦線の疲れも見のがすことはできますまい。以上の点は、兵を用いる上での大きな欠点であるにもかかわらず、曹操は敢えて危険を冒そうとしております。したがって、曹操を破ることは可能です。願わくば精鋭三万をお与えくだされ、夏口へ出撃させていただきたく。必ずや曹操軍を破ってお目にかけましょう。(p.162)」この演説で孫権の腹は決まった。孫権は周瑜に「その方と子敬(魯粛)だけがわしの気持ちと同じだ。二人は天が、わしを助けるためにつかわし給うたのだ」と大いに喜んだという。こうして、赤壁大戦の火蓋が落とされたのである。
 周瑜は大都督に任命される。実はこの赤壁の戦い、正史「三国志」には詳しい記録は書かれていない。「呉書・呉主伝」の孫権のところを見ても、「劉備と共同して軍を進めると、赤壁で敵と遭遇し、曹公(曹操)の軍を徹底的に打ち破った。」とあるだけで、どんな戦法を使ったのかなどは一切記されていない。また、敗北した曹操が自分で船に火を放ったとも書かれている。しかし「周瑜伝」では、呉将の黄蓋が曹操に偽の降伏状を送り、曹操が油断したところで、船団に火を放つという、いわゆる「苦肉の計」が記されている。一般的に認識されている赤壁の戦いの実像はこれである。この戦いでの周瑜の活躍は、孫権に開戦を決意させたのと、緒戦での水軍の勝利だろう。
 周瑜には兼ねてより、一つの計略があった。南の孫呉と北の曹魏で覇を競うという「天下二分の計」を考えていた。孫権に進言する。「今曹公は、敗北を喫したところに、劉璋と張魯が動き出しました。とても閣下と争うことは適わぬでしょう。そこへ私が奮威将軍・周泰と共に進んで蜀の地を取り、張魯を倒し、そこに周泰を留めて地を固めつつ、西涼の馬超と上手く手を結ばせましょう。私は軍を返し、閣下と共に襄陽に進み、曹操を討ちます。そうすれば北方を手に入れることができるでしょう」孫権はこれを許可し、周瑜は遠征の準備のため江陵に戻る途中、病死する。210年12月、享年36歳。亡き親友の意思を継ぎ、粉骨砕身した若き王佐の才のあまりに早すぎる一生だった。葬儀の際、孫権は喪服を着て哀悼したが、その嘆きようは、周囲の者がもらい泣きするほどであったという。葬式の費用の一切を孫権が払い、また次のような法文を出した。「故将軍周瑜と、程普のあらゆる身内・食客については、何事によらずお咎めなし」。