第1章 王佐の才・孔明
まず初めに、孔明はどんな人物だったのか。
孔明(姓は諸葛、名は亮)は、181年に瑯邪郡陽都に諸葛家の次男として生まれた。身長8尺の偉丈夫に成長した彼はいつも自分を管仲、楽毅になぞらえていたという。
10代後半の頃、孔明は友人の石広元、徐元直、孟公威らと遊学したことがあった。熱心に勉強する石、徐、孟に対して孔明は「君たちの勉強ぶりを持ってすれば郡守・刺史にはなれるだろう」と言い、3人が孔明の望みを問うと、笑って答えなかったという。このころより孔明の心には漢王室復興という大きな志があったのだろう。
そんな孔明が後の主君・劉備に出会うのは207年、劉備が荊州の劉表の下で 髀肉之嘆をかこっていたときのことである。このころ、肥沃な荊州の地には戦禍を逃れて多くの知識人が集まっていた。
孔明の噂を聞いた劉備は三度草盧を訪れる。漢王室の衰退を嘆く劉備に対して孔明が提示したのが、草盧対、有名な「天下三分の計」である。
この内容を要約すると「荊、益の両州を手に入れて国境を固め、西方と南方を平定し、呉の孫権と同盟して、国政を整える。天下に変乱が生じた時は荊州の軍を率いて宛、洛を攻撃させ、劉備自身は益州の兵を率いて秦川に討って出る」といったようなことである。
飛躍の時期を見失い、漢王室復興への夢も閉ざされかけていた劉備にとって、この草盧対に全てを賭けようと思わされたのではないだろうか。以後、孔明は三顧の礼に応え、劉備に軍師として仕える。
孔明の初陣は曹操対劉備の長坂坡の戦いである。劉備が駐屯していた荊州の太守、劉表が死に、跡を継いだ息子のjが、南下してくる曹操の大軍に怖気づいて降服してしまったため、劉備は彼を慕う民の群を引き連れ、来る曹操軍から逃亡することとなった。
このときの様子を「三国志」では「曹公、精鋭五千騎を将いてこれを急迫し、一日一夜、行くこと三百余里、当陽の長坂に及ぶ。先主、妻子を棄て、諸葛亮、張飛、趙雲等数十騎と走ぐ」と、圧倒的力と速さを兼ねた曹操軍に、劉備軍は散々に打ち破られる様が記されている。
命からがら夏口の地にたどり着く。目前に迫る曹操に、なす術も無い劉備。孔明は「今こそ危急の時。私が孫権に援軍を要請しに行きましょう」と、単身柴桑の孫権を訪れた。孔明は言葉巧みに若い孫権の自尊心を揺さぶり、ついに孫権の心を抗戦へと傾かせる。しかし、実際に開戦を決意させたのは、他でもない呉の周瑜であり、赤壁の戦いにおける孔明の活躍はここまでであっただろう。この戦の勝利はあくまで呉のものである。
孔明の活躍というのは、決して派手なものではなかったが、孫権と盟を結ぶことによって劉備を窮地から救い、さらに戦の混乱に乗じて荊州を奪還することを進言し、暗に天下三分の計の地盤を固めたという点で、劉備を大きく飛躍させた。
その後、孔明は、軍師・
(ホウ)統と共に、益州への侵攻を進言。かくして劉備は益の広大な地に、一大勢力を築きあげた。
220年、曹操が没し、跡を継いだ息子の曹丕は、帝より帝位の禅譲を受けて国号を魏と改めた。こうして漢帝国は名実共に滅亡したのである。
翌221年、劉備は臣下に推戴され、即位する。国号は漢帝国を引き継ぐという意味で「漢」とした。しかし、劉備の元に悲報が入る。挙兵以来、共に戦ってきた義兄弟の関羽が、同盟国であるはずの呉の裏切りに合い戦死したという知らせだった。次いで、もう一人の義兄弟の張飛も、部下の裏切りにより、死亡したという知らせも入った。
劉備は孔明や趙雲らが引き止めるのも聞かず、呉への復讐を試みた。夷陵では、初めは勢いに乗じて深くまで攻め入るが、兵站が延びきったところを呉将・陸遜による火攻めに合い、劉備は白帝城まで退却する。そこで再起を計るが、223年4月、この世を去る。わずか2年の在位であった。
死に先立ち劉備は、駆けつけた孔明に「君の才能は曹丕に十倍する。必ずや国を安泰に保ち、漢室の再興を成し遂げてくれると信じている。倅の劉禅が、守り立てるに値すると思うなら助けてやってほしい。倅に才能がないと思えば君が取って代わってくれ」と遺言する。孔明は涙ながらに「私は死ぬまで臣下として力を尽くし、忠義を貫く覚悟でございます」と答えた。
劉備の死後、孔明は軍の総司令官となり、全権を任される。ここからが王佐の才発揮である。益州は、劉璋から劉備に政権が移ったことや、夷陵、南征などの度重なる戦によって疲弊していた。
意外と知られていないが、孔明の本領は内政にある。
「邦域の内、みな畏れてこれを愛す」というのは陳寿の、政治家・孔明に対す評である。為政には大きく分けて「韓非子」の"厳"主体の方法と、「孔子」「孟子」による"徳"主体の方法がある。孔明は「韓非子」を愛読したが同時に、上手く「孔子」「孟子」も実行しているのである。信賞必罰を徹底し、公平無私だったことが愛される要因だったのだろう。
孔明の政治手腕を以ってすれば、疲弊した益州を回復させるのもそう困難なことではなかったはずである。しかし彼は軍を動かした。魏への侵攻である。無理な戦であることは孔明も十分過ぎるほどにわかっていた。それでも孔明は計4回に及ぶ北伐を強行する。
228年春。街亭で魏軍と一度目の対戦をする。蜀軍の要である街亭を死守し、猛将・魏延を奇襲部隊と見せかけ、趙雲と共に一気に長安を攻め落とすという孔明決死の陽動作戦だったのだ。しかし、ここで孔明は大きなミスを犯す。
街亭の先鋒に起用したのは、愛弟子である馬謖。彼は知謀に溢れる将来有望な青年だったが、実戦の経験がなく、まだ机上の軍師でしかなかった。街道を死守せよという孔明の命令に背き、山頂に布陣して敵に補給路を断たれ敗走してしまった。これにより、長安奇襲作戦は水泡に帰す。
228年、231年にも北伐を行うが、いずれも食料の補給が続かず、涙を呑んで軍を退いた。
234年春。孔明は五丈原で魏の司馬仲達と対峙する。前三回の失敗を教訓とし、屯田を起こし自給自足の体勢をとったが、やはり遠征軍は不利だった。持久戦に持ち込もうとする仲達に「それでも男か」と夫人用のベールと服を送ったが、挑発には乗ってこない。
その後も仲達は出陣する気配は見せず、孔明は病を発し倒れる。234年8月、五丈原にてその生涯を閉じた。
北伐に先んじて、孔明は劉禅に「出師の表」という上奏文を書いている。これは劉禅に向けて、君主としての有り方から、先帝・劉備との話にまで及んでいる。
孔明は過労死であったという説がある。徐庶、ホウ統、法正ら、軍師と呼べる人物はいたが、皆早くに亡くなっている。孔明は決して得意とは言えない軍の指揮と、暗愚な君主に代わって国政の全てをこなしてきた。これも、劉備への恩に報いるため、劉備の大志を成し遂げるために他ならない。
孔明を王佐の才有りと言わずして、誰に王佐の才があると言えるだろう。