第二章 日本のミイラ


 日本にもミイラは存在している。これらは入定ミイラ、即身仏とよばれている。入定とは、僧や行者が断食の修行ののちに魂が永久に生き続ける状態に入ることを言う。
もともと「入定」の意味は禅定に入り、宗教的な瞑想に入ることで、死とは関係ない。しかし、世にいう「入定」とは簡単にいえば岩窟などの隔絶された密室に入り、長く深い瞑想に入ったように入寂すること、つまり死ぬということである。ただし、「自然死」と「入定」の違いは、入定が、死が近づくのを知ると結跏趺坐して宗教的瞑想に入って死んでゆくのに対し、自然死は何もせずに死んでゆく。この差がきわめて大切で、「入定」の死は、信仰的には死と見ず、深遠な瞑想の姿と考えるのである。

 日本では、人は死ねば自然に還るという死生観であった。では、なぜミイラ信仰が起こったのか。まず、そのことからみてみる。

 日本で最初の入定者は、853年高野山の奥の院で入定した空海(弘法大師)とされている。この空海の入定伝説こそが後のミイラ信仰に関係している。空海は三月二十一日の寅の刻(午前四時)、大日如来の印を結び、座禅正坐の姿勢で入定した。それまでの一〇日間と四時間、弟子達と共に弥勒菩薩の宝号を唱えていたが、目を閉じ、言語(声)を発しなくなって入定した。しかし、その姿は生きているようで、死後四十九日経ってもまったく変わらず、髭と髪が伸びていた。これを剃り衣服をととのえ、石壇をつくって、梵語文字の陀羅尼(呪文・真言のこと、梵語「ダーラニ」の写音)を入れて、上に宝塔を建立し、仏舎利を安置した。

 この空海の入定伝説は、多くの文献や説話が残っている。これらをみる限り、空海が入定したという話は本当であるように思ってしまう。しかし、『続日本後記』によると、淳和上皇が空海を弔った勅書に、高野山は遠い場所にあるので大師(空海)の亡くなった報せが伝わるのが遅く、使者を急いで行かせたが、遅すぎて火葬の手助けができなかったと、述べている。このことから、空海の遺体は火葬されたということがわかる。

 「空海入定説」が発生したのは、空海死後百年以上経ってからのことである。この伝説がその後の日本の即身仏に与えた影響は大きかった。空海の入定説が脚色され、最後には土中入定とも結びついてしまったことが、湯殿山系即身仏を生んだ一つの要因とも言われている。少なくとも初期の即身仏である淳海上人、本明海上人は、この入定説話を知っていたようだ。更に1630年から150年以上に亘る羽黒山との抗争が直接的な契機となって、天台宗に改宗した羽黒山との差別化を図るために即身仏を多く作ったというのが真相と考えられている。

 では、日本の即身仏は、同じ目的・理由でミイラ仏となったのだろうか。実はそれぞれ違うのである。その種類をいくつか挙げてみると、まず即身成仏論がある。即身成仏とは、真言密教の根本思想であり、その内容は一言で言えば「大日如来との一体化により現身のまま仏陀になる」ということのようだ。これが真言密教という宗教の最終的な目的という訳である。この「即身成仏」の思想が「遺体を残したまま成仏する」というものではないのは勿論である。

 しかし、17世紀から18世紀の亘って続いた湯殿山(真言宗)と羽黒山(天台宗に改宗)の闘争の過程で、これらのミイラが相次いで登場することになった。これは「真言宗の湯殿山」を証明するために、更に湯殿山で各種の厳しい修行を耐え抜いた修験者の最高の修行形態として、「即身成仏を実践してみせたもの」と考えられている。経緯はともかくとして、「即身仏」という言葉は本来これら「即身成仏を実践した」ミイラにのみふさわしい。

 次に弥勒信仰のミイラである。弥勒信仰とは「弥勒菩薩が五十六億七千万年後にこの世に下生し、菩提樹の下で三度の説法を行う。この結果、釈迦の救済できなかった282億人が救済される」という思想に基づく信仰である。昔から南岳慧思大師のように「弥勒の下生まで生きつづけることが出来ないので、仙人になって待ちたい」などと願文を立てた人も多くいたが、「弥勒の下生まで体を残したい」という考えでミイラになったものが存在する。

 ただ、これらのミイラは空海入定説の影響も受けている。というのは、空海入定説の成立の過程で、本来なかった弥勒信仰との結びつきが発生したからと考えられている。空海は弥勒思想を持っていなかったと言われるが、「御遺告」という文献に空海が「自分は死後、弥勒の兜卒天に往生して、五十六億余年の後弥勒とともに下生する」と言ったと記されており、このあたりから空海と弥勒信仰が結びついたと考えられる(「御遺告」は後世の改竄の可能性が指摘されている文献である)。

 ところで、今、実際にどれくらい即身仏が残っているのだろうか。多くの入定の話があるわりに意外と少ないのである。湯殿山系即身仏を中心に十数体しか残っていない。

 即身仏になるには、どうすればいいのだろうか。もっと多く残っている湯殿山系のものをみると、入定するまでに、とても厳しい修行をしなければならない。まず、湯殿山付近の仙人沢というところに行って、一千日、二千日、三千日などの願を立てても木食行をしながら修行する。                             
木食行とは、木の実ぐらいしか口にしないという徹底した食事制限によって、生前から肉体の脂肪分を落とし、生きているうちに修行によってミイラになりやすくすることである。木食行は、穀物を絶つ修行で、穀絶ち、断穀などと呼ばれており、宗教的な修行としてとても重視された。
穀絶ちには、五穀絶ちと十穀絶ちがある。五穀は米・麦・大豆・小豆・胡麻、これに蕎麦・黍・稗・唐黍・粟を加えて十穀とするともいわれるが、この穀物の種類は一定していない。

 即身仏を志す行者たちは、進んでわが身を荒行の中に投じた後、土中入定が行われた。生きながら木棺の中に入り、土の中の石室におろしてもらい、息つき竹を地上に出して土をかけて埋められる。この中で鉦をたたき、読経をしながら死んでいった。そして三年三ヵ月後に掘りだされてミイラとなり、衣を着せられ厨子に安置され、即身仏として祀られるのである。

 では、その即身仏はどのような背景から生まれたのだろうか。一つ言えることは、いずれも社会不安が背後にある。貧苦に悩む小作人の農民の信者たちを身をもって苦しむ人びとを救済しようとして入定し、一方で信者たちは、生前加持祈祷でめざましい法力を発揮した入定者を仏として祀り、なんとか自分たちの苦難をとり除いてもらおうと「即身さま」を作り上げたと深作氏も述べている。

 「土中入定のような地下の暗闇の中での孤独な死では、自分が極楽往生できるといった自己の救済だけでは、とても耐えられるものではない。なにか精神的な強い支えがなければ、とうてい死の恐怖を克服できるものではない。そういう民族的な心意が、入定者が修生救済を遺言して死んでいくという、土中入定伝の他者救済信仰を伴ったと考えられる」と内藤正敏(1999)が述べているように、日本のミイラは他者救済信仰によって生まれたものであるといえるであろう。